2013年06月10日(月)

ノッツインタビュー 「ギターを持ったマンガ家の唄」(2)

取材・構成:草見沢繁、高瀬司
収録日:2013年3月15日

「ギターを持ったマンガ家の唄」(2)

 

片や初の単行本『クルミくん NO FUTURE』(小学館)を2月に上梓し、『ソラミちゃんの唄』(芳文社)の発売も間近に控えた新進気鋭のマンガ家。片や『ヘルメンマロンティック』(HATCH)でギターを手に甘い歌声を響かせるシンガーソングライター。はたまたミドリカワ書房「大丈夫」のPVを手がける映像作家でもあり、supercellのトリビュートアルバムに参加するボカロPでもある――。
『bonet』では、そんなさまざまなジャンルを股にかけて活躍するマルチクリエイター・ノッツへのインタビューを敢行した。これから全5回に渡り、その多才さを育んだ半生から作品に隠された秘密まで、未だ知られざるノッツの創作の核へと迫る。

 

【第1回はこちら】

 

人生を変えた織田哲郎氏との邂逅

 

――自作した曲は友だちに聴かせるだけでなく、どこかのレーベルへデモテープを送ったりはしなかったんですか?

 

この話は公表していないんですが、僕の人生が狂ったきっかけとなるエピソードがあるんです。

17歳の夏のことなんですが、MTRを使って一生懸命に曲を作っていたとき、『ギターマガジン』にあったデモテープ募集の記事ページを目にして。そこへオリジナル曲のデモテープを送ってみたんです。そしたら後日、織田哲郎さん[※14]の当時のマネージャーさんから電話があって「ちょっと、1回会ってみませんか?」と言われて。それですぐさま上京して、実際に織田哲郎さんにお会いしたということがあったんですよ。織田さんの車に乗せてもらったり、一緒にご飯食べたりして……「あっ、ヤバい。始まったよ僕の人生。プロになっちゃうな、これは」みたいに思っちゃって(笑)。当時の僕は、何も知らずに夢ばかり見てる田舎の宅録少年で、服もオカンセレクションで、何もかもがダサいただの小僧ですよ。たぶん、織田さんにしてみたらちょっと興味を持って1度会ってみたってだけで。結局その後は何もありませんでした。

でもやっぱり残るんですよね。「自分は、デモテープが織田哲郎の耳に引っかかった男だ」みたいな想いが(笑)。もちろん「たぶん、これ以上の進展はないな」って徐々にわかってきて、最終的には 「いい思い出でした」となるんですけど。

 

夢のキャンパスライフ?

 

――その後、大学に進学されるわけですが、進路はどのように決めたのでしょう。

 

音楽の専門学校に進学するという手も一瞬考えたんですけど、そこからプロになるという道もあまり思い描けなくて……。それに、下に妹が2人もいるので国公立の大学にしないと家計的に厳しいという事情もあり、自分が行けるレベルで面白いところがないか探していたら、近場の山口大学に良さそうな学科があったのでそこを受けました。教育学部の国際文化コースという、教育学部なんだけど教員免許を取らなくても卒業できる、すごく中途半端なところです(笑)。とりあえず大学生になりたいだけっていう、僕みたいな人間が行くのにちょうどいいところだなと(笑)。

それと、宅録の環境がそろっている実家の近くのほうが融通がきくだろうという打算も大きかったですね。都会の大学に進学したら宅録も難しくなるじゃないですか。山口大学だったら車で1時間ぐらいで帰れたので。というかそもそも当時は、都会に出て行ってチャンスをつかむみたいな発想も持ってなかったんですよね……そのあたりのことがよくわかってなかった(笑)。

 

――キャンパスライフはどのようなものでした?

 

はじめは真面目に音楽をやるつもりで軽音楽サークルに入ったんですけど、そこでは結局、普通に大学生活そのものを楽しんでいましたね。お酒を覚えたり車を運転するようになったりといった変化、恋愛模様やサークルのあれこれとかがあって。

それとそのサークルがコピーバンドばかりやるところだったんですよ。バンドでオリジナルをやるという空気ではなくて……。そうしたサークルの基盤のうえで、上手く自分を出すタイミングをつかめないままの状態が続いていたんです。なので結局、サークルではコピーバンドをやって、家で1人自分の曲を作るというサイクルで活動していました。

 

――ではオリジナル曲の発表の場というのは?

 

インターネットです。大学2~3年ぐらいの頃に、ようやくネットでmp3の音源がギリギリ聴けるぐらいの時代になってきたんですよ。自分のホームページを作って、そこでオリジナルの曲をアップすると反応がもらえる。いい時代になりました。まったく知らない人から「すごくよかったのでCDがあればください」というメールが来たときはうれしかったですね。すぐにCD-Rに焼いて送りました。

 

――サイトのメインコンテンツは音楽だったんですか?

 

自分の中ではそのつもりでした。ただ当時はテキストサイト[※15]の全盛期だったので、最初は面白日記みたいなものを頻繁に、その後イラストを載せると反応がいいということがわかってきたので、以降は毎日、少なくとも3日に1回ぐらいは絵日記を書いてアップしてましたね。音楽が聴ける絵日記サイトみたいな、すごく雑多なホームページになっていました(笑)。

 

――そんな中、マンガを再び描かれるようになったきっかけというのは?

 

イラストをアップしているうちに、読み切りの短編マンガも描くようになったんです。読み切りのいいところは、単体で完成した1つの作品として読まれるところですね。これまでは描きはじめてもだいたいが途中でほったらかしになっていたんですけど、それからは思いついたらちゃんと完成まで描くようになりました。

あとは大学に入ってから、メジャーなもの以外にもいろんなマンガを読むようになったことも大きかったのかもしれません。桜玉吉先生[※16]がすごく好きだったので『コミックビーム』を購読しだしたんですけど、『ビーム』経由で出会った山川直人先生[※17]の『コーヒーもう一杯』という短編集に衝撃を受けて。すごく味のあるセンチメンタルな内容で、僕もこういったマンガを描いてみたいと思いましたね。

 

――発表の場をネットに移したことで変わった点というのは?

 

変化という点ではホームページよりも、大学の終わり頃にネットラジオをはじめたときに強く実感させられました。というのも、livedoorが買収する前、当時黎明期だった「ねとらじ」[※18]を利用しはじめたんですが、それによって音楽をリアルタイム配信できるようになったんですよ。

ラジオ用の掲示板を用意すると、そこにリスナーさんが書き込んでくれるんですね。そしたら僕がそれを読み上げて話をする。そうするとそれを聴いたリスナーさんがまた書き込んでくれる。間が持たなくなったら突然歌いだす(笑)。そんなおしゃべりと生演奏が半々ぐらいの構成でした。それでも毎回リスナーさんが来てくれて反応をくれる。とにかく楽しかったですね。

 

――そうした活動はいつ頃まで続けられたのでしょう?

 

ひとまず大学卒業までです。その後の1年間は、会社員として人生の暗黒時代を送りました(笑)。あまりにキツかったので思い出したくないほどなんですけど、ほとんど創作活動に時間が割けなくなってしまって、その頃は本当に陰々鬱々としてましたよ(笑)。

結局その会社は辞めてしまって、実家に戻って地元で再就職しました。工場勤務だったんですけど、朝8時に会社に行って夕方5時に帰るという人間らしい生活サイクルに戻り(笑)、なんでもっと早くからこうしなかったんだろうと思うくらいに、状況はすごく安定しました。それでマンガや音楽の創作活動を再開することができたんです。ねとらじも再開して週1くらいでやっていました。(現在は休止中)

 

注釈

 

[※14] 織田哲郎(おだてつろう
1978年に活動を開始した作曲家、音楽プロデューサー、シンガーソングライター。1990年代にヒットした相川七瀬、ZARD、DEENなどへの楽曲提供者。1983年にTVアニメ『装甲騎兵ボトムズ』の主題歌「炎のさだめ」を「TETSU」名義で歌い、アニメファンの間でも知られる存在である。

 

[※15] テキストサイト
2000年前後に人気を博していた、エンターテインメント性を重んじているテキストベースのサイトのこと。日記やネタを中心に構成される。「侍魂」「ろじっくぱらだいす」などが有名。現在では多くのサイトが更新停止/閉鎖されている。

 

[※16] 桜玉吉(さくらたまきち)
エンターブレイン(旧アスキー出版)の雑誌を中心に活動するマンガ家/イラストレーター。自らの日常を赤裸々に綴った日記マンガや、コンピュータゲームを題材とするギャグマンガを発表している。代表作に『しあわせのかたち』(アスキー)、『漫玉日記』シリーズ(エンターブレイン)などがある。

 

[※17] 山川直人(やまかわなおと)
マンガ家。代表作に『コーヒーもう一杯』(エンターブレイン)、『ハモニカ文庫』(芳文社)などがある。スクリーントーンをあまり使わず手描きのカケアミを全面に多用した、版画のような絵が特徴的。

 

[※18] ねとらじ
livedoor社(現在の運営は株式会社ねとらじ)が提供していたインターネットラジオを聴取・配信できるネットサービスの名称。ノッツの番組「ノッツクリームラジオ」は毎週月曜夜に放送されていた。