2013年06月07日(金)

ニコニコ超会議2で配布したペーパー掲載の村上春樹『多崎つくる』の感想

村上春樹を読んで大急ぎで考えたこと

 

 

 村上春樹の最新刊を組版した言語社の笠井翔はその内容について「美少女ゲームみたいですよ」と僕に言った。彼がいったいどういう実感のもとにそう言ったのかは分からないが、読み終えてみて確かにそういう感じがする、と思った。いくつか理由がある。
 
 今回の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という作品を簡単に要約すると以下のようになる。多崎つくるは名古屋で仲良し五人組と過ごしていたが、大学で東京に出てきた後、突然彼らから拒絶されることになった。それからつくるは死ぬことばかり考え大人になったが、なぜ自分が拒絶されたか分からなかった。大人になってから沙羅という女と出会い、彼女はその秘密を解明すべく、かつての仲間たちに会うべきだとつくるを諭す。そしてつくるはかつての仲間たちを巡礼し、そして、仲間のひとりだった「シロ」のレイプ疑惑によってコミュニティからリジェクトされたことを知った。しかしながらそれは彼女たちの狂言であり、再会する仲間たちはそのことをそれぞれに悔やんだ。そして「シロ」は既に死んでいた。他殺だった。秘密に近いところにいた「クロ」はそれが誰かにレイプされた「シロ」を救うための嘘であり、そのためにつくるを犠牲にしたということを告白した。すでに死んだ「シロ」と話すこともできない中、つくるは自分が彼女たちの性夢を見ていたことを強く思い出し、もしかしたら自分の夢が彼女の死の原因かもしれない、と思わずにはいられなかった。巡礼の後、再びつくるは沙羅と向き合うが、その過程で彼女が別の男と和んでいたのを見てしまった。つくるはそれを告白し、選んでほしいと述べた。沙羅に選択を迫らなければならない。沙羅は時間が欲しいと言った。つくるはそれを待っていた。その返事が出ぬまま、物語は終わる。
 
 この小説の「美少女ゲームっぽさ」……とはいってもそもそも美少女ゲームそのものが物語化の過程で村上春樹の強い影響を受けている、という議論が長らくされている中で(特に麻枝准)、こういう言い方をするのもいささか自家中毒的ではあるのだが、ひとつはっきりしているのは、キャラクター本位であるということだ。といってオタク文化におもねった「ふかえり」的キャラクターがごてごてと存在しているという意味ではない(多少そういうきらいもないではないが)。そうではなくて、表題にもある通りこの作品では「巡礼」という動作が重要な軸となっているが、巡礼の支持体が場所ではなくて人になっているのが「美少女ゲーム」的だということだ。「美少女ゲーム」には攻略対象というものが存在する。憑き物落としと言い換えてもよいだろう。今回図らずもつくるがやっているのはそういうことだ。
 
 しかしこれは小説であるのだから真似しようとも単なる美少女ゲームにはなりようがない。その点で面白いのは同じ名字を冠した「多崎礼」の小説に似通ったところがあることだ。といってもこういう構造自体はありふれているので単なる連想ゲームに過ぎないが、要はそれ自体は交換不可能な一人一人のルートを攻略していく中で「深い物語」の核心が見えてくる「丸戸史明」的構造である。実際、まるでそれをなぞるかのようにつくるは比較的情報量の軽い「アカ」「アオ」の順に攻略し、核心に迫る「クロ」――そして核心そのものたる「シロ」へと至った。
 
 村上春樹が周到だなと思うのは、明らかに真ヒロインであるはずの「シロ」が決してその役割を担わず、「色彩」という物語の重要なモチーフからは外れたところに存在するはずの木元沙羅がその役割を担うというところだ。錯綜してしまうのを恐れずに説明を試みてみよう。
 
 「色彩」の物語として本作を考えるにおいては「シロ」は物語の終着駅である。ところが彼女はすでに死んでいるため、絶対に辿り着くことができない廃駅と化している。このような不在の中心をめぐる物語は村上春樹の十八番とも言えるものであり、「直子」や「羊男」「影」がその代表的名辞であることは言うのも今更だ。しかしながら不在の中心とはいえどもなぜか何らかの方法によってその否定的対象とコミュニケーションが取れてしまうのが村上節とでも言えるものだった。羊男はきちんと「俺は死んだよ」と言ってくれたのだ。ところが今回はそうではない。夢によってあたかも「シロ」と触れ合ったかのような――とても自然に、まるで繋ぎ目なく現実から夢へと移行するのだが――ことになったとしても、それは決して空想以上のものにはならない。なるほど、本当はそうだったのかもしれない。しかし、それは文章の水準においても決定的な事実にはならない。
 
 このことはまた別種の問題も呼び込む。つくるが「死にたい」と思う原因になったのは「シロ」をめぐる不幸な陰謀だった。彼女は、つくるによってではなかったが、本当に誰かにレイプされ、妊娠した。女であることを恨むようになり、生理を止めるために拒食症にまでなった。だがいったい誰にレイプされたというのか。そしてその後、彼女は誰とも知らぬ人物によって殺されたという。だがいったい誰に殺されたというのか。あらゆる謎の核心がほとんど宙吊りになっている。もちろん、こんなことはツイッターやフェイスブックをいくらまさぐっても分からない謎である。そういったものが存在しなかった十年前や二十年前に置き忘れられた記憶である。だから分からないことは自然なのだが、その自然さは装われたものだ。実際、つくるを追い詰めた拒否にしたって、全ては装われたものだった。「色彩」を持った彼らもうすうすはそう思っていたのだ。本当はこういうことではないのではないか。
 
 こういう宙吊りを文学の宿命として持ち上げるのはまったく不毛なことだが、今回はたまたま切り出してしまったので美少女ゲーム的見地からこれについて考えてみると、そこにはひとつ面白い前例があると言える。それは『うみねこのなく頃に』である。『うみねこ』は六軒島で起きた密室殺人事件がメッセージボトルに書かれた遺書の中の記述としてかなり時が経った後に再発見される、という構図を持っているが、それゆえに、過去の現実=真実への肉薄不可能性と、それにともなう解釈の恣意性とでも言うべきものが同時に問題化される。この『うみねこ』自体美少女ゲームの臨界点・鬼子として生まれたものではあるが、その最終局面は驚くべきもので、作中では殺人事件の犯人が魔女か否か――即ち、魔法は存在するか否か、ということが問われ続け、物語の結末もまた、その選択肢によって規定される。思い出してみれば、『ひぐらしのなく頃に』から続けても、有意味な選択肢として最初で最後の現象がこの「魔法」か「手品」かという選択肢であった。(『うみねこ』の解釈については拙著『ゴーストの条件』を参照。)
 
 本作では「シロ」は結局どうなったのだろうかという第一の問題が、沙羅は主人公を選んだのかどうかという第二の問題の決定不可能性によって代替されることで物語を収束させている。どうしてこうなったと言いたくなるような複雑さだ。
 
 このなりゆきには恐らく村上春樹という個人の文学史の問題が絡んでいる。本作を読んでいて『ノルウェイの森』を思い出さないことはほとんどありえないと思うが、あの作品の最後は主人公が自分がどこにいるのかを見失いながら電話口で緑を呼び続けるというシーンだった。自分がどこにいるか分からないというのはどういうことなのかを、村上春樹は測定し続けていたような気がする。そうして発見されたことが、真実と欺瞞の狭間、決定以前、あるいは、決定できることと決定できないことの狭間だったのではないか。
 
 彼は時代を欺く美しい嘘として『風の歌を聴け』を書いた。そのためにはそこに鼠が存在している必要があった。そして鼠はいなくなった。だが、鼠がいなくなった後も物語は続いていく。鼠が存在しているがゆえに生まれたにもかかわらず、鼠不在の世界。そんな世界はいったいどこにある(ことになっている)というのか。このような分裂は、その後も『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』と執拗に描かれ続けた。
 
 それは今そこにあるのだと言うしかないのだろうか。「多崎つくるにはとくに向かうべき場所はない」。そしてそれでいいような気がしている。それは『ノルウェイの森』から比べれば大きな態度の変更にも思われる。わからない。僕も読んだばかりなのだ。これは思いつきのメモをこっそりとチラシの裏に書いただけのことでしかない。しかし、そういう彼の態度は、何か楽なことであるかといえばそうではない。「シロ」の部屋に残された灰皿のメンソールのように、まったくの作り話も、まったくの現実も、彼の「いま」を侵略している。つくるはそれを受け入れているように見える。これは巡礼的態度である。もう紙面がない。「シロ」は悪霊に憑かれていたと「クロ」は語った。だが悪霊とは誰だったのか。この問いはもしかしたら不正確かもしれない。だが、退場させた悪霊の存在感のようなものを、いったいどう名指せばいいというのだろうか。

 

 

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