2013年07月11日(木)

藤津亮太のアニメ時評
帰ってきたアニメの門 第4回
『銀魂』

アニメの門
 

コンテンツじゃない、番組だ。

 
 『銀魂’』が最終回を迎えた。復活はあるだろうか。復活があればうれしいが、終わらないでほしいと未練がましく作品にしがみつくのも『銀魂』らしくないような気がする。
 『銀魂』は少年ジャンプに連載中の同名漫画を原作とするアニメ番組だ。宇宙人(天人)によって開国させられた日本を舞台に、「万事屋銀ちゃん」のメンバー、坂田銀時、志村新八、神楽の3人がさまざまな事件に巻き込まれる内容で、2006年から4年間放送された。その後、1年間の再放送を挟んで2011年からは第二期『銀魂’』がスタート。その最終回が3月26日に放送された。
 
『銀魂』は反時代的なアニメだった。
 たとえば「作品」と「商品」がある。同じアニメであっても、作り手が思いを込めて作り上げたという点に注目すれば「作品」となり、ファンがDVDなどを購入することでビジネスが完結するという部分に注目すれば「商品」と呼ばれる。 『銀魂』はこの「作品」「商品」という二つの側面以外にもう一つ別の側面を持っている。それは「(TV)番組」という側面だ。
 もちろんTVで放送されればなんでもTV番組ではある。しかし、TVの特性を生かしたアニメは決して多くないのも事実。
 TVとはどういうメディアなのか。
 現在のTVが他のメディアに対して特徴的なのは「カメラがどこへでも入り込めるというフットワークの軽さ」「次から次へと映像が流れていくリニア性」「大量の人間が同時に同じ番組に接するという共時性」の3点にある。
 この3点を一言でまとめると、「多くの人間を同時に“事件発生”の瞬間に立ち会わせる機能」といえる。もちろんこの“事件発生”とは犯罪などを指すわけではない。ハプニング(やそれを装ったイベント)などを含むライブ性あふれる出来事全般を指す。TVの本質は「自室にいながらライブ性を体感できること」にある。
 バラエティ番組がコント中心の構成からドキュメンタリー風の要素が入ってくるようになった変化や、生放送の情報番組の増加傾向なども、さまざまな競争の中でTVというメディアの特質がより露わになってきた結果と考えられる。

 ところが、アニメはこうしたライブ性から遠い媒体だ。制作時間はドラマと比しても長いし、なにしろ絵であるから、今目の前で事件が起きている印象は弱い。さらに’90年代半ばから、パッケージ販売のビジネスが拡大し「作品としてのまとまり感」が「商品としての魅力」に直結するようになったことと、TV局(の特に編成)主導の色合いが弱まったこともあって「番組」としての魅力をどう追求するか、という課題は後に下がることになった。
 TV番組全体がライブ性を増していく中にあって、アニメはそこから遠いところに位置せざるをえなくなっていた。
 そういう状況の中にあって、果敢に「番組」としての魅力にアプローチし続けたのが『銀魂』だった。
 もちろんアニメだからライブというわけにはいかない。だが、番組フォーマットを内容に応じて自在に変更したり、漫画の「柱」に相当するような内容のメッセージを提供の画面にのせるなど、番組の“外枠”に手を加えることで「事前に決められた内容をいつも通り流す番組ではありませんよ」という演出が強烈にほどこされている。
 ちなみに、提供にメッセージを載せる作業は、ビデオ編集といってTV局に映像を納品するための最終工程で行われるので、一番ライブ感が出せるポイントだ。
 
 内容に目を転じれば「番組」としてのライブ感を強く実感させたのは、音楽の使い方だ。
 『銀魂』では、『西遊記』のパロディ画面にはゴダイゴの歌が流れ、『天空の城ラピュタ』のパロディには久石譲が流れる。そういう音楽の使い方が当たり前になされていた。これはTV局がJASRACと包括契約を結んでおり、放送の範囲においては、JASRAC登録曲を自由に放送することができるというルールに従ったものだ。
 当然ながらそうした楽曲をそのままDVDにするわけにはいかない。パッケージソフトされる場合には、パロディ感を損なわないように既存曲に“よく似た楽曲”が使われるようになる場合が大半だ。ここに『銀魂』が「商品」よりもまず「番組」であろうとしている姿勢が凝縮されている。
 この「番組」であろうとする姿勢は、深夜アニメが増加し「作品」や「商品」であることが先に立つ状況――それはつまり「アニメがコンテンツと呼ばれる時代」だ――に対して、ずいぶんと反時代的なふるまいだといえる。「番組」であろうとするから、夕方枠での放送にもこだわりがあった。
 そうしたこだわりは、侍が忘れられつつある時代に、未だ「侍魂」を持っている銀時がいる、という作品の構図と重なっても見える。そう問いかけて「そんなめんどくせーことなんか考えてないっすよ」と返事が返ってきそうな雰囲気も含めて。
 
 「番組」としての『銀魂』を語っただけで紙幅が尽きてしまった。そのほかにもまだ書きたいことはあった。
 『銀魂』は、(原作を受けてとはいえ)アニメとしては例外的なほど「盛り場の匂い」のするアニメでもあったこと。そして「盛り場の狂騒」と「浪花節の人生訓」を同時に語ることそのものが“人間”を実感させたこと。その“人間”感にある通俗さこそ、少年漫画的でありかつTV的な大衆娯楽の姿であること。これらの要素がTV番組という大勢が見るメディアとうまく噛み合っていたこと。
 いずれにせよ、『銀魂』があったからTVアニメはまだ安心だと思えた、そんな数年があったことは覚えていたほうがいいと思う。
 

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota
初出:2012年4月16日

関連リンク

帰ってきたアニメの門アーカイブ