2013年07月12日(金)

藤津亮太のアニメ時評
帰ってきたアニメの門 第5回
『LUPIN the Third ‐峰不二子という女‐』

アニメの門
 

『LUPIN the Third ‐峰不二子という女‐』vs「ルパン」

 
 『LUPIN the Third -峰不二子という女-』の第1話「大泥棒VS女怪盗」は、不二子とルパン三世が互いを拳銃で狙い合うシチュエーションを幾度も繰り返す。
 麻薬を使う怪しげな宗教のいかがわしい教祖が、彼と彼女の狙う獲物の障害として立ちふさがるが、そこには美女を飾る花一輪といった風情で、しょせんは、引き立て役。本題はあくまでも、不二子とルパンが銃を向け合うという点にある。
 
 アニメ化から40周年を超えた『ルパン三世』の新作は、峰不二子を主人公にした前日譚。シリーズ前半は、いわゆる“ルパン一家”が形作られる前の、出会いと関係の変化に主軸を置いたエピソードが続いている。キャラクターの言動も、(不二子、五エ門、それに銭形がキャスト交代したこともあり)若々しい。ルパンと不二子が幾度も銃を向け合うのは、まさにこの前日譚の前半の主題がそこにあるからだ。
 これまでもスペシャル番組の中で前日譚が試みられたことはあった。だが、今回は、これまで以上に絵柄を原作に近づけたことと、そこはかとなく原作がスタートしたころの’60年代末から’70年代初頭を思わせる美術設定と小物で画面を飾ることで、「過去の出来事を今見ている」かのような感覚をこれまで以上に強調している。彩度の低い色を使った色彩設計もくすんだような画調を作り出して、その印象を深めている。
 
 だが、なにより本作が印象的なのは、本作がとても“静かな作品”だという点だ。
 『ルパン三世』は、そもそも『007』が火付け役となったスパイ・ブームが一世を風靡した’60年代後半に原作が登場し、年に1回スペシャル番組が放送されるようになってからは、インディ・ジョーンズもかくやという冒険を繰り広げたことも少なくない、そんなキャラクターだ。拳銃とカーチェイス(に代表される乗り物のアクション)にルパンの軽妙な体技が彩りを添える、ライトなアクション作品といえる。
 だが、本作はそういう平凡なルパン三世像を裏切るかのように、アクションがでていてもそこには“静けさ”がたたえられている。それは本作が、前日譚という題材を選んだことに起因している。
 アニメ版『ルパン三世』の原点は言うまでもなく、’71年から放送が始まったいわゆる“旧ルパン三世”である。
 原作者モンキー・パンチは『ルパン三世 Master File 』に収録されたドキュメンタリー「ルパン三世クロニクル」の中で、アニメ化をもちかけられた当時を回想し、原作は筋を通した話ではなく、コマ割の縦横無尽さで読ませるものなのだからアニメには向かないと答えた、と語っている。
 アニメ化の参考にしたであろう原作初期を読むと、ハードボイルドな雰囲気もさることながら、ミステリとしてのフェアネスにこだわらずトリックのためのトリックで読者を驚かせることに主眼が置かれていることがわかる。この面白さが、モンキー・パンチのいうところの「コマ割りの縦横無尽さ」で読ませているという部分だ。

 この面白さは、当時の流行語である「ナンセンス」とも深いところで共振している。クルクルと立ち替わっていく表層。意味ありげに見えるそうした表層を、「ナンセンス」の一言でひっくり返していく痛快さ。そのスピード感。
 だが、この“ナンセンスのセンス”はマンガでこそ楽しく読めるが、ストーリーを消費していくメディアであるTVアニメには向かない。『ルパン三世』をアニメにするには、このナンセンスなセンスを、ドラマになるように解釈する必要がある。
 「旧ルパン」はまず、この心性の根をニヒリズム、それを生み出すアンニュイに求めた。人生に倦み、だからこそあらゆるものに意味がないと知っている。そういう大人の命がけの遊戯が、盗みというわけである。
 多くの人が知るとおり、このアンニュイな路線は低視聴率を理由にそうそうに路線変更される。そしてその後は、このルパン三世が孕む「ナンセンス」なセンスは、「若さ故の狂騒」というふうに別のアプローチで再解釈されることになった。「イキがってる若者には世の中のすべてがたいしたことがないように(カモに)見える」というわけだ。
 “ナンセンスのセンス”という一番のルパンを支える要素は、アニメの中では次第に薄れていくが、その後のルパンは「あらゆるものに意味がないことを前提にした遊戯」と「イキがっている若者の遊戯」のほどよい折衷として作られている。

 本作のアダルトでハードな雰囲気は、旧ルパンの前半の雰囲気に近い。だが、アンニュイさは少なく、むしろ「若さ」がコンセプトである点では、旧シリーズ中盤以降に連なるものといえる。ここで重要なのは旧ルパンでは、現在を生きる若者が描かれていたのだが、本作は、既に過ぎ去った「過去の中に生きている若者」を描きだそうとしている点だ。
 視聴者の多くは、各キャラクターの緊張感ある対峙が、すでにさんざん描かれてきた「ルパン一家」の平穏へと(やがては)収斂していくだろうことを知っている。だから、本作の初対面から対立、そしてほどよい距離感に至る不二子とルパンや次元、五ェ門の関係は、その対立に答えを出してはいけない(現在おなじみの姿に移行してはならない)という宙づりの静止状態にならざるを得ない。そこは、まるで一幅の絵のように凍り付いて静けさをたたえている。
 
 このように、本作の「静けさ」は、「ルパン三世の前日譚」という基本設定から生まれた避けがたいものなのだ。だから視聴者は、まるで故人の引き出しから出てきた若き日のスナップ写真を眺めるように、本作を楽しむことになる。美しい一葉の写真として本作を楽しむか、それとも、活劇不在のキャラクタードラマとして物足りなく感じるかは、その人の『ルパン三世』観とも深くかかわってくるポイントだ。
 もちろん以上は現時点で放送終了した第6話まで前提に描いたもの。もちろんこれまでにも、今回書いた図式を今後、内側から破る要素と思えるものも登場している。
 たとえば、誰もが愛する女・不二子を憎む男オスカーの執着の強さや、フクロウに象徴されている不二子の過去(?)という要素。そもそも第1話に登場したエピグラフを書いた「L.Y.A」とは何者なのか。
 これらの要素がシリーズの展開に絡むかどうかはさておいても、本欄は本作が「美しい過去の写真」の世界を打ち破る瞬間を待ちわびたいと思う。実はその瞬間こそが、ルパンたちキャラクターが、現在を生きるキャラクターとして再生する瞬間になるはずだと思うからだ。
 

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota
初出:2012年5月16日

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