2013年07月17日(水)

藤津亮太のアニメ時評
帰ってきたアニメの門 第7回
『グスコーブドリの伝記』

アニメの門
 

ブドリの妹捜しがこんなに幻想的なわけ

 
「では問題に答えなさい。工場の煙突から出るけむりには、どういう色の種類があるか。」
 ブドリは思わず大声に答えました。
「黒、褐かつ、黄、灰、白、無色。それからこれらの混合です。」
 
 これは宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』の一節。独学で勉強してきたブドリが、学校でクーボー博士の口頭試問を受ける場面だ。シンプルな質問から始まるブドリの一連の答えは、非常に丁寧なもので、彼が科学者の観察眼を持っていることを巧みに表現している。この科学的な観察眼の存在こそが、『グスコーブドリの伝記』を童話であり、かつ科学小説として成立しているポイントだ。
 だが、映画『グスコーブドリの伝記』はこの口頭試問の会話を省いた。観察をベースとした科学的感覚の欠落こそ、映画『グスコーブドリの伝記』を特徴づける重要な点だ。
 
 映画『グスコーブドリの伝記』のあらすじは基本的には原作を踏襲している。飢饉で天涯孤独となったブドリは、やがて火山局で働くようになり、再び飢饉が訪れそうになった時、重大な決意を固める、という大枠はまったく同じだ。大きく違うのは、ブドリが異界を幻視し、その中で子取り(人さらい)が連れ去った妹ネリを探し求めるというシーンが挿入されている点。
 これにより映画は、原作の持つ科学小説の味わいから距離をとり、幻想性を前面に出したファンタジーとして成立することになった。
 どうして映画『グスコーブドリの伝記』はファンタジーにならなくてはならないのか。
 『グスコーブドリの伝記』と意外な共通点を持つ映画がある。『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』だ。
 『逆襲のシャア』は、いうまでもなく『機動戦士ガンダム』シリーズの一作で、宇宙世紀0093年を舞台に、アムロとシャアの最終決戦を描いた映画だ。
 シャアは、腐敗した地球連邦の支配にピリオドを打ち、人類を覚醒させるために、小惑星アクシズを地球へと落下させる作戦を決行する。それを止めようとしたアムロは、νガンダムでアクシズを押し戻そうとする。その時、突如νガンダムが虹色の光に包まれ、その光はさらにアクシズを包み、落下は止まる。
 謎の光によって突如、回避されるカタストロフ。それは「奇跡」としか名づけようがない。そして「奇跡」を目前にした人間は、なにが起きているかを理解できないから、ただただ言葉を失っていく。
 『逆襲のシャア』のラストで描かれた「奇跡」と『グスコーブドリの伝記』のラストに描かれる「奇跡」は非常に近い。


 『グスコーブドリの伝記』でも、ラストでカルボナード火山が白くやわらかい光に包まれた後、そこで何が起きたかは一切語られない。ただ、冷害による飢饉というカタストロフが避けられたと静かに語られるだけである。
 どうしてこの2作は似ているのか。
 それはどちらも、登場人物の死という劇的な事態をそのまま奇跡に結びつけることを禁欲的に避け、「奇跡」を描きながら「死の美化を避ける」というアクロバット的な振る舞いを目指しているからである。

 「奇跡」とは、人間の世界の外側からやってくる――だから人間には合理的に理解することができない――世界の肯定のことにほかならない。
 この世界は人間が生きて行くに値するものなのか。現実の中で、そこに答えを出すことは難しい。だから物語はしばしば「奇跡」という理解不能の形でこの世界を肯定しようとするのだ。その物語に触れた人は、世界が生きて行くに値するものとして生きていくことができる。
 大事なのは、「奇跡」という形の世界の保証は、言葉によってなされてはいけないという点だ。それは本来人間の世界の外側からやってくる「奇跡」を、人間の世界に引きずり落とすことにほかならない。
 「奇跡」が人間の世界に引きずり降ろされると、奇跡のきっかけとなったキャラクターは英雄化され、その死は美化される。死の美化とはつまり、生きていることの否定だ。
 「奇跡」が説明可能なものとして語られた瞬間に、それが示す価値観が180度反転してしまうのである。その陥穽にはまらないようにするため、実は両作品ともかなり慎重に「奇跡」を表現しているのである。
 
 映画『グスコーブドリの伝記』の場合は、飢饉で妹ネリを失った、心の傷を抱えた存在としてブドリを描くことで、飢饉から人々を救いたいというブドリの思いを徹底的に個人的な思いとして描く。社会的な文脈の中に絡めとられると、英雄化しかねないからだ。それは「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズクニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と『雨ニモマケズ』に記した宮沢賢治の思いも裏切ることになる。
 だから映画は、社会的な視点が入ってきてしまうのを防ぐために原作の持つ科学的リアリズムを抜いて、そのかわりにブドリのインナースペースにフォーカスをあてた幻想性を大胆に導入する必要が生まれたのだ。それがこの映画が、ファンタジー映画として作られなくてはならなかった理由だ。この映画のリアリズムの欠如を気にする人がいるかもしれないが、この映画は最初からそこを捨て去って、出来上がっているのである。
 唯一、小田和正による主題歌『生まれ来る子供たちのために』だけが、饒舌にメッセージを語ってしまっているのだが、その例外があったとしても、本作が、何度も見返さざるを得ない映画として完成していることは揺るぎない。
 

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota
初出:2012年7月17日

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