2013年08月02日(金)

藤津亮太のアニメ時評
四代目アニメの門 第1回
『風立ちぬ』

アニメの門

 

第1回:『風立ちぬ』
幻視の中で手を伸ばして

 
 青年というにはまだ幼い顔立ちの二郎のカンカン帽を、突風が急にさらっていく。帽子は、牧歌的な緑の中へ放り出されるかに見えたが、白く細い腕がその帽子をはっしとつかむ。二郎の帽子をつかんだのは、少女の菜穂子。この直後、2人は関東大震災に巻き込まれ共に避難をするが、その時、2人はまだお互いの名前を知るには至らなかった。
 目の前に飛んできた帽子を(列車から落ちそうになりながらも)迷わずつかみ取る。一見すると人間性に関する描写が少なく見える菜穂子だが、それは菜穂子というキャラクターのすべてが、この「身を挺しても、風に運ばれていく何かをつかみ取ろうとする」アクションの中にすでに現されているからだ。
 
 『風立ちぬ』は、零戦の設計主任・堀越二郎が、小説『風立ちぬ』の作者・堀辰雄のような恋をしていたら、という想定で描かれた映画である。この映画は「風に運ばれていくものに手を伸ばす」というアクションを繰り返し描く。帽子をつかもうとする菜穂子の姿はそれを象徴するものだ。
 
 やがておよそ10年が過ぎて、二郎と菜穂子は軽井沢で再会する。
 最初の出会いは風と帽子が仲介した2人だったが、今度はそこに紙飛行機が加わる。体調を崩し2階の部屋で休んでいる菜穂子と二郎の間を往復するのは、紙飛行機と帽子だ。菜穂子は、二郎が投げた紙飛行機をキャッチしようと、あの日、客車のデッキから身体を伸ばしたように、ベランダから身を乗り出して飛行機に手を伸ばす。そして今度は勢い余って菜穂子の帽子が落ち、二郎はそれを受け止める。
 ここでも菜穂子の振る舞いは変わらない。いうまでもなく、ここで2人の間を行き交っているのは単なる紙飛行機、単なる帽子ではない。
 彼女が、二郎の突然のプロポーズをごく自然に受け止めるのもまた、このアクションと同一線上にある行動だし、さらにいうなら、療養所を出て二郎と一緒に時間を過ごそうとすることも、死期が近づくとそこから姿を消すことも同じだ。どれもギリギリまで身を挺して何かをキャッチしようとしている行為にほかならない。それは、彼女自身が風に運ばれていこうとしているからだ。
 
 内面をほとんど描かれなかった菜穂子だが、“立体的”な人物造形などにとらわれず、その行動だけ見ればむしろ終始一貫して、とてもわかりやすい人物だ。二郎に都合よく造形されたというより、隣り合った線路を二台の列車が一瞬、偶然並び合って疾走するような、そんな関係として描かれている。
 もちろん並走する以上、この菜穂子と同質の美質を二郎も持っている。ただ菜穂子が、限られた生故の切迫感を背負っているのに対し、二郎のもののつかみ方はもっと優しい。
 軽井沢で再会のきっかけとなったのは、風に舞ったパラソルを二郎がつかまえたことだった。菜穂子の帽子をキャッチしたのは先述の通りだし、さらにいえば、菜穂子と結婚式をあげる決意をしたことも、一緒に寝たいと望む彼女の希望に応えたことも、「風に運ばれていくものにやさしく手を伸ばす」という点で同じだ。病床の菜穂子に付き添いながら、手を握ってあげるシーンを思い起こしてほしい。
 
 また「風に運ばれていくものをつかみ取ろうとする」というこのアクションと並び、繰り返し描かれる映像がある。それが「幻視」だ。
 「幻視」といえばまず印象的なのが、二郎が幼いころからたびたび見る「夢」のシーンだ。二郎はそこで、イタリアで初めて実用航空機を製造したカプローニ伯爵と出会う。この夢で描かれる世界は、飛行機設計士(本作の中でそれはほぼほぼ芸術家と同義だ)としてのエゴを持ったものだけがのぞき見ることができる「天国」(もしくは「地獄」)である。
 この夢のシーンは幻想的で美しく、この映画が、「美しい飛行機」と「戦争協力」という、誰もが直面する世俗的な葛藤を描くものではないことを無言のうちに示している。現実において理想と現実の矛盾・葛藤など呼吸をするように当たり前のことであり、特に描くに値することではない。だからこそ、その葛藤の中に当事者がいかに自身の夢=エゴを息づかせているかどうかが問題となる。
 
 しかも、この映画の中で「美しい夢」と「現実」が明確にわかれているかといえば、丹念に見ていくとそうでもない。
 飛行機の設計に取り組む二郎のまわりを風が吹き荒れる描写がある。あれは設計をしながら二郎が、実際に飛んでいる飛行機を想像し、その風を“体感”しているのである。現実かと思いきやカプローニが登場し、二郎を夢の世界へと誘うシーンもある。あるいは二郎が見学したユンカース製旅客機の内部からカメラを引くカット。このとき、カメラは翼の中をすり抜けていくというかなりアクロバティックな動きをするが、その時、一瞬翼の構造が透視図として示される。この透視図は一体誰が見たものなのか。それは誰でもない誰かとしか言いようがない。
 つまり「現実」とおぼしきシーンの中にもふいに「幻視」のカットが紛れ込んでくるのが、この映画なのである。
 この幻視という点で忘れてはいけないのは、本作が冒頭から、二郎が眼鏡をかけているという点を強調して描いていることだ。しかも目が悪くてパイロットをあきらめた二郎に、設計家の素晴らしさを説くのが、夢の中のカプローニなのである。
 度の強い眼鏡越しに見る二郎の瞳は、だぶり歪んで描かれ、時に彼は4つの目を持っているようにも見える。あたかも、近眼という欠点が彼を幻視者にしたかのような描き方だ。
 
 はかなくも美しい愛情をもたらした「風が運んでいくるものに手をさしのべるアクション」と、二郎の設計者として優秀な力にまつわる「幻視」。映画はこのふたつを柱として物語を展開する。そして、本編中に幾度か、このふたつが重なり合うシーンがある。
 ひとつは、軽井沢で夕立に降られた後、二郎と菜穂子が見上げる美しい虹。風が演出した再会から始まった愛が一歩深まったところでみられるあの虹もまた、美しい幻視のひとつではなかったのか。
 そしてもうひとつが、ラスト。カプローニとの夢の中に菜穂子がでてくるシーン。ここではついに菜穂子自身が風に消されてしまう。
 設計者としての輝きも、そこによりそった鮮烈な愛情も、物語の最後で、二郎の前からその姿を消している。ここで映画のキャッチコピーである「生きねば」という言葉に意味が出てくる。
 人間とは失われていく可能性の塊だ。
 天分を持った人でさえ、その輝きを維持できる期間はわずかだ。この映画ではそれを「10年」とはっきり断言している。しかしそういう輝かしいシーズンが終わった後も人は生きていかなくてはならない。
 「理想化された芸術家の人生」を描いた本作は、その大半が、気高く美しいが、誰も登ることのできない高い山のようだ。多くの人はそれを遠くから仰ぎ見ることしかできない。
 だから、むしろ凡俗にとって真に感動的なのは、ラストシーンで普通の人になってしまったであろう二郎の姿なのである。

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota

 

関連リンク

帰ってきたアニメの門アーカイブ