2013年07月30日(火)

藤津亮太のアニメ時評
帰ってきたアニメの門 第16回
『シュガーラッシュ』/『パラノーマン ブライス・ホローの謎』

アニメの門
 

対照的なエンターテインメント

 
 本稿では『シュガーラッシュ』と『パラノーマン ブライス・ホローの謎』の結末に触れている。
 『シュガー・ラッシュ』と『パラノーマン』はどちらも2013年3月から公開された。
 『シュガー・ラッシュ』はディズニーによる3DCG映画、『パラノーマン』は『コララインとボタンの魔女』で注目を集めたライカ/エンターテインメントによる人形アニメーション。手法も対照的だが、実は描いている内容も対照的。しかも、どちらもエンターテインメントとして非常に練り上げられている。
 『シュガー・ラッシュ』を見てうならされるのは、徹して洗練されたそのスタイルだ。
 物語の舞台は、ゲームセンターのアーケードゲームの世界。主人公は、8ビットゲームの悪役を30年間も演じ続けているラルフだ。ラルフはほかのキャラクターに冷たくされたことをきっかけに、ほかのゲームの世界に入り込み、ヒーローのメダルを手に入れようとする。その過程でラルフが出会ったのが少女ヴァネロペ。ヴァネロペは、ラルフがまぎれ込んだお菓子の国のレースゲーム「シュガー・ラッシュ」のキャラクターだが、時折体にノイズが入るため、バグキャラ扱いされていた。ラルフの「悪役だってヒーローになりたい」という葛藤が、ヴァネロペと交流し、彼女を苦境から救い出すことで昇華される。
 冒頭から随所にでてくる既存ゲームのキャラクターを使ったくすぐり、8ビットゲームのキャラが中割ナシでキビキビと動くアニメーションとしてのおもしろさ、中盤以降の舞台となる「シュガー・ラッシュ」の美術・キャラクターのキュートなデザイン。映画を構成するさまざまな要素が、「ゲーム世界の住人の物語」という――設定的には少々苦しげな――アイデアを、無駄なく支えている。説得力があるだけでなく、説得力的にあやうい部分も作品世界が魅力的だから「まあ、うまくのせられてもいいかな」と思えるように仕上がっている。
 
『シュガー・ラッシュ』が洗練だとすると、『パラノーマン』はもっと生々しい映画だ。
 主人公はゾンビ映画が好きな少年ノーマン。実はノーマンは死者の姿を見ることができ、それが原因で家族とも折り合いが悪く、学校でもいじめられている。そしてある日、同じ能力を持ったおじさんから、無理矢理、300年前に封印されてきた魔女を封印し続ける役割を半ば強引に託される。だが、魔女の墓地といわれる場所に出向いたノーマンの前に現れたのは、7人のゾンビだった。ノーマンを追って町に出てきてしまうゾンビ。
 あらすじだけ紹介すると重苦しそうだが、要所要所でユーモアを織り交ぜることを忘れないのも『パラノーマン』の美質だ。
 そういうユーモアを支えているのが、3Dプリンターを駆使して作られた人形の持つ存在感だ。人形には、3DCGとは異なる独特の存在感がある。『パラノーマン』の持つ生々しさは、そこにある実物を撮影していることから生まれるもので、現実の人間に近く感じられるかといったこととはまた異なる。
 人形アニメと観客の間には「生々しく感じられるが、同時に、人間そのものではないということも常に意識させられる」という独特の距離感がある。そしてその距離感をうまく生かすことで、本作のゾンビたちを恐ろしくもユーモラスな存在に見せている。
 
 このように手法も対照的な2作品だが、なにより「敵」の描き方にこそ、その違いが明確に現れている。
 『シュガー・ラッシュ』の敵は「シュガー・ラッシュ」を治めるキャンディ大王だ。彼はヴァネロペのレース参加を阻もうと、さまざまに画策する。実は彼の正体は、1980年代のレースゲーム『ターボタイム』の主人公ターボ。ターボは、ゲームが廃れて廃棄される時にほかのゲームに逃げ込み、姿を変えてシュガーラッシュに君臨していたのだ。
 キャンディ大王にはヴァネロペがレースに参加してはまずい理由があり、それによってヴァネロペを助けたいラルフの「障害」になっている。「障害」をキャンディ大王というキャラクターとして描き出すことによって、ラルフがヒーローたりえる行為が具体的でわかりやすいものになる。
 悪役を演じているラルフに苦悩があったことを踏まえれば、廃れていくゲームの主人公としてターボにも苦悩がありうるのかもしれないが『シュガー・ラッシュ』はそこには触れない。あえて表層的な悪役として描き、本筋であるラルフがヒーローになるという部分を浮き上がらせることが、キャンディ大王の役割だからだ。
 つまり悪役を意図的に「役割」の範囲にとどめることで、エンターテインメントとしてすっきりとまとめているのが『シュガー・ラッシュ』なのだ。
 
 では『パラノーマン』が描く「敵」とは何か。それは「内なる恐怖に支配された私」である。
 復活した7人のゾンビはノーマンを追いかけているうちに町へ出てきてしまい、なにをしているわけではないのに、人を襲ったことになってしまう。そして恐怖にかられた住民はパニックとなって暴徒化。ゾンビが逃げたと思しき市役所に詰めかけ、さらに焼き討ちまでしようとする。
 内なる恐怖にかられた人間がどこまで残酷になれるのか、『パラノーマン』は容赦なく描く。だが、映画はそこだけで終わらない。
 では、なぜゾンビがいるのか。
 実は彼ら7人は300年前、恐怖に駆られて魔女裁判を行い、一人の少女を殺したことがあった。かれらがゾンビとなったのはその報いだったのだ。つまり住民の「内なる恐怖」の対象となった被害者である彼らも、そもそも住民たちと変わらない「内なる恐怖」に駆られた加害者だったのである。
 そして、魔女として裁かれた少女は、被害者であるゆえに強い怒りでもって、世界を呪っている。彼女もまた加害者でもあるのだった。
 被害者が被害者ゆえに加害者となる負の連鎖。その連鎖反応を起こしていくエネルギーとしての「内なる恐怖」。それこそが『パラノーマン』が描きだし、ノーマンが立ち向かわなくてはならない「敵」なのだった。
 もちろんこの「敵」は簡単に倒したりはできない。さいごに暴徒となった市民が、あっさり反省することの皮肉っぽさも含めて、単純なハッピーエンドにはなっていない。先述した「生々しく感じられるが、同時に、人間そのものではないということも常に意識させられる」という人形アニメ独特の距離感が、ここではそのまま「人間という存在」の客観視へとつながっている。
 このようなビターな内容を含みつつも、オタクっぽいノーマンが自分の居場所を見つけるという縦軸がブレないことで、間口の広いエンターテインメントとして出来上がっているのが『パラノーマン』の凄味なのだ。
 
 フィクションには大きく分けて二つの作り方がある。
 一つはきれいに枠組みをつくり、その中で観客の感情を巧みに解放・昇華するエンターテインメントにすること。これはつまりテーマパークのようなものだ。この場合シンプルで力強いストーリ展開がまずあり、舞台設定やキャラクター設定を駆使して、魅力的なデコレーションをほどこすかできるかがカギになる。たとえばディズニー・クラシックなどはこうしたアプローチで作られている。
 もう一つは、エンターテインメントとして楽しませながらも、現実の姿を照らし返す、一種の鏡のような作り方だ。こちらは現実の何を映し出すべきなのか、それをエンターテインメントにどうやって落とし込んでいくのか、そこに難しさがある。そのためこうしたフィクションは前者よりも少ない。
 いうまでもなく『シュガー・ラッシュ』はテーマパーク型で、『パラノーマン』は鏡型だ。そしてどちらも、それぞれのスタイルとして容易に忘れられない出来映えを達成している。
 フィクションというものを考えるのなら、どちらかではなく、この2作品を両方見てほしい。

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota
初出:2013年4月23日

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