2013年07月31日(水)

藤津亮太のアニメ時評
帰ってきたアニメの門 第17回
『惡の華』

アニメの門
 

ロトスコープで挑んだアニメの難題

 
 『惡の華』は絵にも言葉にもならない、ドロドロとした感情を描き出そうとした作品だった。ではその「絵にも言葉にもならない」ものをどうやって画面に定着させるか。そのために選ばれたのがロトスコープという手法だ。
 しかし、なぜロトスコープは『惡の華』の表現手段として選ばれたのか。ここでは、その背景にある意味を考えたい。
 表象文化論学会の『表象07』にポール・ワードによる論文「ロトショップの文脈 コンピューターによるロトスコーピングとアニメーション美学」(翻訳:土居伸彰)が掲載されている。そこにこんな一節がある。
 「ここでもまた、ロトスコープの矛盾する立ち位置が明らかになるわけだ。ロトスコープが生み出す動きは、アニメーションの世界の文脈ではリアルすぎると同時に、リアルさに欠けるものでもある。人間のキャラクターをロトスコープすると、カートゥーン世界の本当らしさが疑わしきものとなってしまうのだ。」
 リアルすぎると同時に、リアルさに欠ける。この一節からも、ロトスコープとは、アニメーションにとってある意味、鬼子であることがよくわかる。
  
 引用した一節にある「カートゥーン世界の本当らしさ」を日本のアニメの「本当らしさ」に置き換えてみよう。
 アニメにおける演技を、高畑勲監督は「落語の所作」に例えた。これは「現実の引き写しではないが、ああ、そうだなと実感できる仕草」ということだ。現実模倣よりもずっと様式化された動きではあるが、記号化はされていない。その虚(様式)と実(現実)の間に、リアリティ(本当らしさ)が生まれる。
 もちろん様式を生かした演技は、人的時間的リソースの限界もあって、もっと単純な記号化された動きになってしまうことも多い。そしてたいがいのアニメは、多くの記号化された動き(たとえば安彦良和はこうした動きを「所作」と呼んで、繊細な演技と区別している)によって支えられている。
 人間は、視野の中で特に動いている一部分に注目する習性がある。だからアニメは、様式化(あるいは記号化)することで、無意味な動きを減らし、伝えたい情報(動きの意味)を画面の中に定着する方向に進化した。逆に言えば、動いているところにはなんらかの意味があるのが、アニメという表現様式なのだ。
 一方、実際の人間の動きをトレースするロトスコープは、動きに無駄が多い。そのノイズの多さゆえ、そこに現実模倣によるビジュアルショックはある。だがアニメ的に洗練された様式のある芝居と比べると、様式を持っていないために、アニメ的なもっともらしさの世界とは相容れない世界がそこにある。
 カートゥーンであろうが、アニメであろうが、ロトスコープは「リアル(現実模倣的)であると同時に、リアルさに欠ける(リアルを担保する一定の様式と相容れない)」のである。
 だから長らくアニメにおいてロトスコープは、不毛な技術であると考えられていた。
 資料映像を見た印象を作画するのはいい。それはなぞっているのではなく、動きや印象を描き止める過程で、アニメーターの体内に記憶された様式化のフィルタを通過するからだ。資料を参考にした作画は、機械的にトレスされた(この「機械的」というのも、ロトスコープに常に向けられてきた批判の一つだ)ロトスコープよりも、様式を通じて、表現すべきことが的確に表現できているからだ。
 
 ここで一度、考えなくてはいけないのは、アニメの様式とはどう獲得され、どう維持されるものなのか、という点だ。
 アニメにおける様式は、まず現実の動きの観察から始まる。観察の成果を、いかに3コマ撮りを基本とした複数の絵へと再構成するか。動きを分節していく過程において様式は獲得される。
 こうして獲得された様式のうち汎用性のあるものは、マニュアル化され、記号化された動きに近づいていく。記号化されると、最初の動きにあった、キャラクターの心理を踏まえた演技の要素は洗い流され、ただ平均的な動きだけが残る。
 この平均的な動きだけでも、適切な組み合わせと、音響・音楽と言ったそのほかの要素を加えれば、さまざまな情感を醸し出すこともムリではない。
 もちろん記号的であることに抗うことも多い。その時は改めて現実観察や想像力に基づき、記号を疑い、再度様式を獲得することになる。この時、かつてはノイズとして捨てられていたものを吟味し、改めて動きをどのように分節するかが検討される。この過程を経て、記号はもう一度、様式へと再生される。アニメにおける様式と現実の動きのノイズは、このような円環運動で結ばれている。
 ただもちろんこの様式による演技にも苦手な部分がある。それは「無意識の動き」だ。「無意識の動き」は、多くの場合、動きのノイズとして、様式化の段階で省かれてしまう。意識的に描こうとすると、意味が出過ぎてしまって、「無意識の動き」にならない。ここでは押井守監督が『人狼』の作画をほめるときに「無意識の動きまで描けている」と語っていたことを思い出してもいい。
 
 さて、ここで『惡の華』である。
『惡の華』は、思春期の胸中にある、ドロドロとしたいらだちと欲望のアマルガムを主題として物語が展開していく。このドロドロとした気持ちは、作中で「グチョグチョ」などといった、「形をとりえないもの」の言い回しで表現されている。この「形をとりえないもの」とはつまり無意識である。
『惡の華』は、このグチョグチョの無意識をすくい取るために、無意識の動き(ノイズ)の多いロトスコープを採用する必要があった。
 ロトスコープによる、現実模倣的な動きは、見ている人間に「人間とはこんなふうに動いているんだ」という発見をもたらす。その発見が、このように生々しい人間であるなら、ドロドロとした気持ちを抱えていてもおかしくない、という認識に繋がる。生々しい動きだからこそ、言葉にならない無意識の存在をそこに読み取ることができるのだ。
 ただここで重要なのは、だからといって『惡の華』はただやみくもに、ノイズの多い演技を展開しているわけではないという点だ。
 
『惡の華』では、実写映像をそのままトレスするのではなく、一旦全コマプリントアウトさた上、必要なコマと不必要なコマを峻別し、その上で作画に起こされるのだという。この過程で3コマ撮りの様式もちゃんと反映されている。
 ここで行われている作業は、様式の中にノイズを取り込んで新鮮な動きを作り出すのとちょうど正反対の作業だ。ノイズまみれの実写映像の中に、アニメの様式を持ち込むことで、「コントロールされたノイズ」を画面に定着させようとしているのである。その点で、実写映像をそのままトレスしていたロトスコープよりもはるかに、従来のアニメに近い。
 また、コストパフォーマンスの点も無視できない。ロトスコープで『指輪物語』などを制作したラルフ・バクシは「現実模倣的なアニメーションを作ろうとした時、ディズニーの予算がない自分には、この方法しかなかった」と語ったという(前掲論文)。『惡の華』のように、無意識を感じさせるノイズの多い動きを通常の作画ベースでやったとしたら、劇場作品であるならできなくはないかもしれないが、TVシリーズではとても不可能だったろう。
「TVシリーズで、無意識を感じさせる動きを、アニメの様式を活用しながらフィルムに定着させる」。
 従来のアニメではクリアできないこの難しい課題に応えているのが、『惡の華』で使われているロトスコープという技法なのである。

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota
初出:2013年7月6日

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