2013年11月01日(金)

藤津亮太のアニメ時評
四代目アニメの門 第4回
『宇宙戦艦ヤマト』『宇宙戦艦ヤマト2199』

アニメの門
 

第4回:『宇宙戦艦ヤマト』『宇宙戦艦ヤマト2199』
「呪い」を解いた新たなテーマ

 
 「テーマ」とは何か。
 テーマというと「作り手の訴えたいこと」という意味で理解されることが多いが、それは決してイコールで結ばれるわけではない。
 
 テーマと呼べる“もの”は三つ考えることができる。
 一つは「作り手が、作品がぶれないために設定した基準点」。
 たとえば『ポケットモンスター』でシリーズ構成を担当していた首藤剛志は、ゲームのある部分に注目して『ポケモン』にテーマを設定した。テーマが具体的にどういうものだったかは、それについて語っているコラム「シナリオえーだば創作術」を参照してほしいが、ここでのテーマはまさに、作品全体が一つの価値観の枠内におさまるようにするための基準点、古代の船乗りにおける北極星のようなものだった。
 二つ目は「受け手が、心を動かされた部分から想像した作品の核」。
 作品を見た受け手が「これが作り手の訴えたいことだったのだろう」と思ったり、あるいは「ヒロインの魅力がこの作品のすべて」と結論づけたりする場合がこの二つ目のケースだ。これは受け手の心の中で生じていることなので、何をテーマととらえようと自由だ。
 三つ目は「作中に繰り返し登場する描写を手がかりに見いだされた、作品全体を律するルール」。
 これは二つ目の場合に似ているが、描写という作品そのものを手がかりにすることにより、受け手よりもむしろ作品に寄り添っている。自分の感動が第一に来る二つ目の場合と異なり、三つ目はまず作品があり、その後にそこに意味を見いだす自分がいるという順番にポイントがある。これがつまり「読解」ということである。
 
 こうした三つの位相の「テーマ」を考える時に、先頃完結した『宇宙戦艦ヤマト2199』とそのオリジナルシリーズ『宇宙戦艦ヤマト』はなかなかおもしろい題材といえる。
 オリジナルシリーズ『宇宙戦艦ヤマト』は、テーマが「愛」だったといわれる。事実、西崎義展プロデューサーもそのように発言していた。
 これは第24話で敵ガミラスを滅ぼした後の、古代進の「我々は、戦うべきではなかった。愛し合うべきだった! 勝利か。……糞でも喰らえ!」というセリフが根底にある。敵ガミラスを滅ぼしたものの、高揚感はなく、ただ空しさだけが残る。名シーンといえるだけの魅力あるシーンであり、このシーンに心打たれたファンは、『ヤマト』のテーマは「愛」であるという話も素直に受け入れられただろう。
 ただ一方で、この「愛」が、シリーズを通じて『ヤマト』をぶれさせない軸として描かれていたかというと、いささかあやしくなる。古代進は好戦的なヒーロータイプのキャラクターで、廃墟を前に語るようなセンシティブさを持ち合わせているようには描かれていなかった。さらには第26話で、第24話で死んだかと思われたデスラー総統が再襲撃してきた時に、先述の「愛」はすっかり忘れられているのである。
 この「感動的なセリフによってのみ導かれてしまったテーマ」は、オリジナルの『ヤマト』の抱え込んでしまった「呪い」であった。
 
 リメイクである『2199』はこの「呪い」から『ヤマト』をいかに解き放つか、という挑戦でもあった。メカデザイン、効果音、音楽といった「オリジナルの踏襲」に注目が集まる『2199』だが、実は「テーマ」に関してはかなり大胆にアレンジを施している。
 第一の意味での『2199』のテーマはおそらく「『ヤマト』の設定が持っていたポテンシャル(可能性)を十分に引き出す」というものであっただろう。従来から指摘されていたオリジナル『ヤマト』の設定の謎(波動エンジンの設計図は送れるのに、なぜ放射能除去装置は取りに行かなくてはならないのか等)に整合性を与えるだけにとどまらない。ガミラスとの開戦から現在に至るまでに地球には何が起きたのか。ガミラス帝国とはどういう国家なのか。オリジナルファンへのくすぐりを忍ばせつつも、2010年代のアニメにふさわしい解像度で世界の広がりを設定した。これはちょうど『スタートレック』が続編『新スタートレック(Star Trek: The Next Generation)』で、設定の再整備を行ったことと似ている。
 第二の意味でのテーマについては、視聴者の感想次第だが、オリジナル『ヤマト』に「呪い」をかけた“感動ポイント”であった、古代進のセリフをまったく省略してしまったところは重要だ。『2199』では、ヤマトはガミラス帝国を滅ぼさず、デスラー総統に裏切られた市民を救うために波動砲を撃つ(しかも、それをするのは古代進ではない)。
 
 では「愛」という言葉は出てこないかというとそんなことはない。かつての古代進の言葉は、形を変え『2199』の森雪から語られるのである。
 ここで第三の意味でのテーマの定義に則って『2199』を読解すると、『2199』はまず「森雪が境界線を行き来する物語」と読むことができる。イスカンダル人にそっくりであり、ガミラスに囚われた雪。雪は、これらの境界線を往還することで世界が「自分たちの側」だけではないことを体現する存在だ。
 第25話の「地球もガミラスも戦う必要なんてなかったのに。お互いに相手を思い合って、愛し合うことだって出来た……はずなのに……」という雪の言葉は、境界線を越えた人間の言葉として血肉を与えられている。
 さらにこの後、デスラーの凶弾に倒れ一旦死んだ雪は、コスモリバースシステムの中で生きていた古代守の“魂”の力で蘇る。ここで雪は、死と生の境界線もまたぐのである。
 人類の歴史は、同じ人類の殺し合いの歴史であり、その意味で生者は望むと望まざるとにかかわらず死者の山の上に立っているのである。雪は一度死に、既に死んでいた守によって生かされることで、自分の命の足下に膨大な死者が横たわっているという事実を体現する。第25話のセリフと生者の影に死者がいるその事実を見せられて尚、“あなた”は死体の山を築く未来を選ぶのかどうかと、雪の存在は静かに問いかけてくるのである。
 そして主人公・古代進は第23話でさとったとおり、そんな雪を守ることを自分のなすべきことと決めたキャラクターだ。それは恋する相手を守るというだけでなく、そこに雪が体現した「理想」を守ろうとする思いが重ねられている。
 人と人との融和の可能性を問いかける雪とそれを守ろうとする進。そこに理想を断言する勇ましさはないが、理想に向かって一歩でも歩みだそうとする意志。それがオリジナル『ヤマト』の「呪い」を解こうとした『2199』で描かれた「テーマ」なのである。
 
 もちろんこれは当欄の読解である。
 読解する人がいればそれだけ読解の可能性はあり、それが作品を豊かにすることにつながる。
 シェイクスピアは『ベニスの証人』でシャイロックを描く時、守銭奴のユダヤ人としか思っていなかったであろう。しかし、あまりに人間的ニュアンスに富んだセリフを書いたため、シャイロックを、そうした世間の偏見の中で屈折した立体的な人物として解釈することが可能になった。それにより『ベニスの証人』は時代を超える作品となった。劇作家の木下順二は、このような例をあげて、作者は作品に裏切られることがあると書いていた。
 第三の意味での「テーマ」は、このような「裏切り」の中で発見され続けるものであるべきだろう。決して「テーマ」とは試験問題の正解のことではないはずだ。
 

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota

 

四代目 アニメの門 バックナンバー

 

関連リンク

帰ってきたアニメの門アーカイブ