2013年12月06日(金)

藤津亮太のアニメ時評
四代目アニメの門 第5回
『キルラキル』

アニメの門
 

第5回:『キルラキル』
表層的なキャラが支えるスピード展開

 
 『キルラキル』はそのスピード感が信条だ。画面の上を拳や得物が勢いよく横切り、人間の体が吹っ飛んでいく。バトルだけではない。食事をする、寝るという日常生活のシーンであっても、そのスピード感は減じない。
 
 映像だけではない。映像のスピード感に負けるとも劣らず、ストーリーのほうもぐいぐいと進んでいく。
 たとえば第1話「あざみのごとく棘あれば」。Aパートは、着用した人間から特殊な能力を引き出すという極制服の設定を具体的に見せるところから始まり、転校してきた流子を描き、当面の敵であろう鬼龍院皐月と対面させ、ボクシング部袋田との初戦まで描く。さらに、その合間に友達となる満艦飾マコのキャラクターも印象づける。
 キャラクターはアクションしているか、猛烈な勢いでセリフを喋っている。そんなスピードに押されて、極制服の星の数によってその街での生活環境まで決められてしまうという、わかったようなわからないような設定も飲み込まされてしまうのが『キルラキル』の自由さなのだが、このスピード感を支えているのが、キャラクターの描き方だ。
 
 『キルラキル』は、登場人物が表層的であることを恐れない。
 創作上の登場人物を、劇中であたかも本物の人間のように感じてもらうには何が必要か。その一つに、登場人物の内面がある。内面があるというのはつまり端的にいうと、「表面的な態度と、本当に思っていることが違う」ということだ。それがセリフのニュアンスや演出で表現されると、その登場人物はぐっと生々しくなる。
 こうして描かれる内面のある登場人物は、心理的慣性を持つ。慣性を持っているので、感情の方向が変化するのを描くには、それなりの時間経過と感情の方向を変えるエピソードが必要になるのだ。実時間よりも短い時間の中で、時間経過やエピソードが巧みに織り込まれると、心理が自然に変化したように感じられることになる。
 だから心理的慣性を持つ内面のある登場人物を大切に描こうとすると、どうしても時間がかかる。現代のロボットアニメの第1話で、主人公がロボットに乗り込み最初に戦闘するまでを描くのが難しいといわれるようになったのは、設定の複雑化に加えて、心理的な慣性を’70年代よりも作劇の中で丁寧に扱うようになったことも一因のはずだ。
 つまり「スピード感」を求めようとすると、「内面のあるキャラクター」の心理的慣性は、ネックになるのだ。そこで『キルラキル』は、(少なくとも第1クールの大半は)キャラクターをひたすら表層的に描くことで、スピードをあげていく。その象徴が、ものすごい勢いで喋り、流子を守るために詭弁を弄するマコの存在だ。
 さらにいうなら第7話「憎みきれないろくでなし」の、満艦飾一家が成り上がり、人間味を失い、ついには反省してもとの一家に戻るあの展開も、表層しかないキャラクターだからこそ可能になったスピード展開だ。内面のあるキャラクターではこうはいかない。
 
 そして『キルラキル』の見所は、このキャラクターが表層的であるということを、画面の上でも徹底的に主張している点である。
 第1話でまず驚くのは、教室の入り口から頭をのぞかせる蟇郡苛の巨大さだ。この数メートル以上ありそうな蟇郡は、あくまで演出でそう描かれているだけで、演出されたものであるというのはカットが替わるとすぐにわかる。とはいうものの蟇郡という人物はその後も、アクションシーンや威圧的なシーンになると画面の中で巨大に描かれる。
 あるいは第3話「純潔」でも、皐月の顔だけがアップになって、ロングショットのままのマコを一喝するという演出があったが、これもまた蟇郡苛の巨大化と同じ美意識・同じ根を持っている。
 
 内面がある人間を、図像レベルで同じようなリアリティを持って受け止めてもらうには、このような融通無碍な空間感はむしろやってはいけないことだ。登場人物が存在する舞台が、きっちりと正確な遠近感をベースとした空間で構成され、キャラクターがその中に正確にたたずむからこそ、そのキャラクターが本物らしく受け止められるのだ。’90年代前半からアニメはそういうアプローチで表現を深化させてきた。『キルラキル』はそれをあっさりと無視する。それが手で描かれ、それゆえにどうとでもなる「絵」であることをあからさまにする。どこからともなく現れて吹き飛ばされていく名もなき学園の生徒たちも、その美意識の産物だ。
 キャラクターが表層的でなければ、このような表現は成立しない。万が一成立してもただのギャグ、誇張した表現という範囲に留まるだろう。『キルラキル』がおそろしいのは、ひたすら表層的であることと、ひたすら絵であることをより合わせ、作品を支える「思想」とでもいうべきレベルまで高めている点だ。昭和っぽいとか、’70年代っぽいとかそういう意匠は単なる意匠に過ぎない。その意匠を、現代のアニメとして自然に見られるように統合しているのが、この「思想」だ。それはメインスタッフが『天元突破グレンラガン』『Panty&Stocking with Garterbelt』と作ってきた中で「思想」へと育ててきたものだろう。それは現在のアニメの画面に対する、オルタナティブの提示でもある。
 
 この原稿は第9話「チャンスは一度」まで見た時点で書いている。まだシリーズはだいぶ残っている。
 表層的なキャラクターであっても、キャラクターの対立の構図の作り方で、総体的なドラマ的な深みは出せる。ということは勝手に予想をするなら、やがて登場するであろう最終的な敵役が、どういう理屈で自らの行動を正当化するか、どういう理由で流子と対立するのかが『キルラキル』のドラマ的な焦点になるのではないだろうか。いずれにせよ、このまま「内面なんて知らないよ」とうそぶいたまま、「おもしろいアニメ」として走り抜けてほしいと期待している。
 

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota

 

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