2014年02月07日(金)

藤津亮太のアニメ時評
四代目アニメの門 第7回
『ガッチャマンクラウズ』『サムライフラメンコ』

アニメの門

ヒーローへの感染

 昨年7月からスタートした『ガッチャマンクラウズ』と、10月からスタートし現在放送中の『サムライフラメンコ』は、どちらもヒーローものという共通点がある。企画成立の背景には、ここ数年、アメコミ・ヒーローの映画が連続して公開されるという状況があるのだろう。実際、『ガッチャマンクラウズ』は昨年夏に公開された実写版『ガッチャマン』との連動企画として立ち上がったものだし、『サムライフラメンコ』の序盤は映画『キック・アス』を思わせるものだった。
 興味深いのは、どちらも「ヒーローとは何か」を問う内容になっており、ストレートなヒーローものを選択していないという点だ。特に、今期のロボットアニメ『ガンダムビルドファイターズ』と『バディ・コンプレックス』が、ロボットアクションを軸にしたストレートな内容ということもあって、よけいに「ヒーローもの」2作の凝ったアプローチが意識されてしまう。
 
 『サムライフラメンコ』は徹底的にヒーローという存在にこだわった作品だ。
 子供の頃に見た特撮ヒーローものへの憧れがこうじた雑誌モデルの羽佐間正義(まさよし)は、自作の変身スーツを身にまとい、町中のさまざまなトラブルを解決するヒーローとして活躍しようとする。「サムライフラメンコ」とは、正義(まさよし)の祖父が、自分の理想の大人像を託したオリジナル・ヒーロー。正義(まさよし)は、祖父からサムライフラメンコの物語を聞かされて育てられた。
 
 この正義(まさよし)が一人ではじめた“ヒーローごっこ”が、予想外の方向に二転三転していくのが『サムライフラメンコ』のおもしろさだ。
 一人で戦っていたサムライフラメンコの前に現れたのは、本物の悪の組織、キング・トーチャー一味。キング・トーチャーが倒された後は、その背後にいたフロム・ビヨンドが出現。正義(まさよし)は、今度はフラメンジャーレッドとなって仲間とともに、巨大ロボットも操りつつ戦いを繰り広げる。“ヒーローごっこ”が次第に本物のヒーローものにすり替わっていくのだ。
 そしてフロム・ビヨンドとの決戦を終えた第15話の時点では、政府の謀略によりヒーローたちは次々と逮捕され、正義(まさよし)は追われる身となっている。
 一連の変転する状況の中、正義(まさよし)は「ヒーローとして振る舞うこと」を己の指針としている。状況に流されその志を忘れかけることはあっても、最後には「ヒーローである自分」を取り戻す。
 にもかかわらず、周囲は特撮ヒーローもののように、ヒーローの存在を前提として受け入れているわけではない。この周囲の状況とヒーローであることのギャップ(つまり狭間=羽佐間)で、正義(まさよし)が揺れ動く様が、本作のドラマとなっている。本作は「ヒーローというフィクション」に「感染」してしまった正義(まさよし)が、現実の中でヒーローたらんとする物語なのだ。
 
 「ヒーローというフィクションへの感染」を軸にした物語であるということは、敵の存在からも浮き彫りにされる。
 たとえばキング・トーチャーは、「特撮ヒーローの悪の組織を崇拝する」異常者だった。これはまさしくヒーローに感染した正義(まさよし)の裏返しの存在である。
 続くフロム・ビヨンドの決戦で登場したビヨンドフラメンコは、正義(まさよし)とそっくりの顔で(概念的な意味での)“弟”を名乗った。
 彼は、正義(まさよし)との因縁をほのめかした後、ビヨンドフラメンコはフロム・ビヨンド6万5000人の意志を反映したインターフェイスに過ぎないと言う。これは、さまざまなヒーロー(のパロディ)という“影”を生きている正義(まさよし)の立ち位置と極めて似ている。
 さらにビヨンドフラメンコは、自分たちも正義(まさよし)もそのほかのヒーローもやっていることには意味がない、同じようなものだと静かに告げる。それに対し、正義(まさよし)が、自分は自分がやりたいからみんなを守る、日本を守ると応じると、ビヨンドフラメンコは、俺たちが暴れた理由もそれさ、と答える。
 ここでも敵は、正義(まさよし)の鏡像なのだ。
 
 ヒーローと敵は限りなく同じ存在であること。「ヒーローに感染すること」からはじまった物語である以上、この世とは「圧倒的な何かに感染した人間同士の争い」なのだ、という主題がそこから浮かび上がる。
 この構図の中で、感染から最も遠いリアリスト、もう一人の主人公・後藤がどう振る舞うのか。そこが今後の注目点だ。
 
 一方、『ガッチャマンクラウズ』は、端的にいうと「ヒーロー否定の物語」である。
 『ガッチャマンクラウズ』で、悪役を演じたベルクカッツェは、宇宙人という設定だがそこにはあまり意味はない。ベルクカッツェが象徴するのは、人の心の中にある「悪意」である。作中ではこの「人間の悪意」の具体例として、匿名掲示板などで書き散らかされる悪意あるものの考え方とそこで使われるネットスラングが、ベルクカッツェの言葉として採用されていた。
 
 本作では、一方で人間の世の中をよくするための取り組みも描かれる。
 物語前半で描かれるのは、総裁Xと呼ばれる人工知能が管理するSNS「GALAX」を使った社会実験だ。SNS「GALAX」の持つ高度なマッチング機能を使った社会の円滑化。さらに総裁Xを開発した累は、HUNDREDと呼ばれる、内発性の高い100人のユーザーにCROWDSという能力を与え、彼らを大規模事故などの緊急事態に対応できるボランティア的な存在とした。
 しかし、この累の実験は失敗する。それは「内発性の高い人間を選ぶ」という一種のエリート主義から生まれ落ちる嫉妬を、ベルクカッツェが巧みに利用したからだ。
 この失敗を経過した物語のクライマックスでは、CROWDSはあらゆる人に渡されることになる。そしてゲーミフィケーション(課題の解決や顧客ロイヤリティの向上に、ゲームデザインの技術やメカニズムを利用する活動全般)を活用することで、内発性の高くない普通の人の何気ない行動が、社会のためになる方向へと誘導されていく姿を描いた。
 
 ゲーミフィケーションを落しどころとしたハッピーエンドは、ベルクカッツェが体現する悪意の生々しさに比べると、いささか理想論過ぎるきらいはある。だが、物語の前半でコラージュを楽しむサークルを登場させ、「なんてことはない断片が集まると、一つの魅力的な絵ができ上がる」というコラージュのあり方を一つの理想として描いていた本作からすると、極めて妥当な落着点といえる。
 つまり本作では、世の中を住みやすくしようとわざわざ思わなくても、自然と世の中を住みやすくしてしまう仕組みそのものに理想が託されている。それはつまり、特定のヒーローによって守られる世界ではない。
 
 では本作の中で、ヒーローであるガッチャマンはどう扱われているか。彼らは異星人であるJ・J・ロビンソンによって選ばれ、NOTEを抜き取られたことによってガッチャマンとなった。本来ならば特権的なヒーローであってもおかしくない成り行きだが、本作はむしろ彼らの普通さ、弱さにフォーカスする。ヒーローも、普通の人と大きく変わらない存在であることが強調されるのだ。「ヒーローに感染すること」が強い意味を持つ『サムライフラメンコ』とはそこが大きく違う。
 その中で、特別に重要な存在が主人公の一ノ瀬はじめだ。はじめは、第1話でガッチャマンに選ばれるが、そこに大きな意味を求めない。はじめは、ガッチャマンであるかどうかに関わらず、はじめのまま、いいと思ったことをやるのだ。
 
 はじめは「触媒」だ。
 多くのキャラクターたちは、はじめに触れ、はじめの予想外の視点に驚かされ、そしてそこで少しだけ変化する。この変化が積み重なり、一つのコラージュのように住みやすい世の中が浮かび上がる。
 はじめは人を前向きに動かすきっかけを与える「メタ・ヒーロー」であり触媒である。物語の最初から最後までその本質は変化しない。
 『サムライフラメンコ』と『ガッチャマンクラウズ』を並べると、前者は「ヒーローなど圧倒的な何かへの感染」をめぐる物語であり、後者は「今の世の中におけるヒーローとは何か」を考える物語であることがはっきりする。
 さらにいうとここでは、「世の中にふさわしいシステムがあれば、みんなちょっとずつヒーローになれる」という思想と、「圧倒的な存在に感染しなくてはヒーローになれない」という思想が対立的に示されている。
 これはどちらが正しく、どちらが間違っているということではない。ヒーローという架空の存在を描く時のアプローチの違いが、それぞれフィクションの機能の異なった部分を際立てた結果なのだ。
 
 優れたフィクションは、現実では決して出会うことのない他者への共感(エンパシー)を通じて、現実をどのように読み取るかという視点を読者に与える。
 この時「他者への共感」を中心に考えると、「ヒーローへの感染」が主題として浮かび上がる。一方、「現実をどのように読み取るか」を中心に考えると、「今の世の中をもっと住みやすくする可能性」を強調した物語が浮かび上がる。
 この2作はその点でコインの裏表であり、比較しながら鑑賞すると、お互いの作品の理解がより深まるはずだ。
 

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota

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