2014年08月01日(金)

藤津亮太のアニメ時評
四代目 アニメの門 第13回
『思い出のマーニー』

アニメの門

不思議な宙づり感覚のわけ

※本稿は『思い出のマーニー』の展開上重要な部分に触れています。可能であれば映画鑑賞後に読むことをおすすめします。
 
 
 『思い出のマーニー』の特徴は、鍵となるマーニーが二重性を抱えたキャラクターという点だ。だから、マーニーをめぐるドラマもまた二重にならざるを得ない。その点が、この作品を個性的なものにしている。
 
 主人公である杏奈は、頑なな少女で、育ての親にも心を閉ざし、そんな自分を深く嫌ってもいる。ぜんそくの療養として海辺の村へとやってきた杏奈は、入り江に建つ古い洋館“湿っ地屋敷”で、金髪の少女・マーニーと出会う。
 この時点での杏奈とマーニーの出会いは、イマジナリーフレンドのそれだ。
 イマジナリーフレンドとは、子供の心の中にしか存在しない「空想の友達」のことを指す。人間関係が不得手な幼い子供に起こりやすい現象で、一人っ子か女子の第一子に多いといわれている。多くは成長にともなってやがて消えていくが、大人になってもイマジナリーフレンドを持つ人もいるそうだ。
 『赤毛のアン』のアンは、グリーンゲイブルズに来る前、鏡の中の自分にケティ・モーリスと名前をつけていた。そしてアンは、ケティ・モーリスと一緒に(想像の世界の)花や妖精のいる素晴らしい世界で遊んだという。ケティ・モーリスもまた、イマジナリーフレンドだったといえる。
 
 杏奈がいつからマーニーが幻想だと自覚していたかは、映画ではしかとはわからない。
 マーニーに誘われパーティーに忍び込んだ翌日、湿っ地屋敷に赴いた杏奈は、改めてそこが廃墟であることを確認している。またしばらくマーニーのことを忘れていたことに気づいた数日後の、屋敷の絵を描いている久子との会話の中では「私が忘れたから、怒っているのかな」とも語っている。
 この「怒っているのかな」が、マーニーが自分の中の(一定の条件で現れる)幻影であることを前提にしているのか、もうちょっと別個の超自然的な存在としてとらえているかは判断が難しい。というのも、それまでの「マーニーとの逢瀬」に対して杏奈がどうとらえているかが明示されていないからだ。
 
 本作はこの前半の「宙づり」の語り口に特徴がある。それは演出の関心が、マーニーの正体(につながる謎解き)ではなく、杏奈の体験に絞り込まれているからだ。
 杏奈(とこの映画)にとって大きな意味があるのは、マーニーという少女と体を密着させてともにボートを漕ぎ、ダンスを踊ったという体験なのだ。その体験は、杏奈にとって「真実」として描かれなくてはならない。とすると、その正体が幻想であるかどうかの判定はさほど意味を持たない。かくして、この映画は、マーニーがイマジナリーフレンドであろうという観客の想定のもと、杏奈に徹底して寄り添いながら、不思議な宙づり感覚のまま進行していくことになる。
 
 杏奈がマーニーを幻想だと自覚していたとはっきりわかるのは、彩香が登場してからのこと。杏奈はそこではっきり、マーニーは自分の空想の存在(つまりイマジナリーフレンド)だと語る。
 だが、ここでポイントとなるのは、杏奈がそれを言い出したのは、マーニーの日記が実在し、それを否定するためだ、という点である。これまで進んできたイマジナリーフレンドとしてのマーニーはここで一旦消え、二重性のもう一つ、一種のゴーストストーリーとしての側面が前面に出てくる。
 日記に書かれた事実から、マーニーは“湿っ地屋敷”とともにある記憶の幻影、地霊(ゲニウス・ロキ)とでもいうべき存在であることが明らかになる。マーニーが、イマジナリーフレンドにしては大岩家の近辺には現れなかったこともここで説明がつく。前半が単なる杏奈のイマジナリーフレンドということでは説明できない描写であったのも、マーニーが地霊であればつじつまがあう。
 
 このイマジナリーフレンドからゴーストストーリーへの転換は、マーニーの正体が明らかになった、以上の意味がある。
 杏奈はこの映画の前半で、自分の理想を投影した分身とコミュニケーションすることで、少しずつ心をほぐしていった。それがイマジナリーフレンドととれるように演出する意味でもあるわけだが、それが「自分の理想」ではなく「他人」へとシフトチェンジすることで、物語は次幕に進む。ここで、杏奈の物語は、いわば“リハビリ”から“実践”へと変わる。杏奈は他人という、強がりを言い(ウソをつき)、自分の思い通りにはならない、存在を学んでいく。
 
 つまりマーニーは、杏奈の分身として現れ(観客がそう想起できるよう、幼い杏奈にマーニーそっくりの人形を抱かせている)、他人として消えるキャラクターとして描かれているのだ。これがマーニーの二重性だ。
 だから、前半のマーニーとの触れあい(自分の分身に認めてもらう)と、後半のマーニーとの触れあい(他人を守ろうとする)では、その意味合いは大きく異なるはずだ。そしてこの二つの側面を経ているからこそ、移行対象(成長期に、主人公の側にいて成長を促し、やがて消える存在)として姿を消すことにつながる。
 
 だが、先ほども書いた通り、この映画は前半の杏奈に徹底的に寄り添うことで、その体験を(幻影かどうかを棚上げした上で)「真実である」というトーンで描いた。その真実こそが杏奈にとっての救いであると位置づけたからだろう。そして、そのスタンスは後半になっても変わらない。だから、マーニーの立ち位置が変わり関係性が自分自身から他人へと変化しても、「二人の仲がより深まった」という部分にこそ目がいってしまう。結果として、マーニーの二重性が孕んでいた意味は後景に下がり、友達の消失という印象が強まり、移行対象として消えたようには見えない。
 物語の構造上マーニーが抱えた二重性と、映画の「核」として置かれた描写の間にある、この距離をどうとらえるか。そこが観客のこの映画についてどう受け止めるかの分岐点になっているのではないだろうか。
 
 なお映画はさらに「合理的結末」としてマーニーの素性を明らかにする。そこでは杏奈とマーニーの関係に新たな要素が加わり、マーニーとは杏奈にとって実は三重の存在であったことが示される。そして、この三番目のマーニーこそ、タイトルである『思い出のマーニー』の主体でもある。
 こうした原作の段階で仕込まれていた仕掛けの多さを主眼にせず、杏奈の「真実の体験」に絞って描き出したのが本作だったのだ。
 

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota

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