2014年09月05日(金)

藤津亮太のアニメ時評
四代目 アニメの門 第14回
『STAND BY ME ドラえもん』『ルパン三世』

アニメの門

アニメ・3DCG・実写

 手描きアニメのキャラクターとリアルなシェーディングを施した3DCGキャラクターにはどういう違いがあるか。
 手描きアニメのキャラクターがまるで実在の人間のように感じられる瞬間がある。だが、それはそのまま図像の存在が本物だと感じられているわけではない。視聴者は、簡略化されている図像をよすがにして、その図像の向こう側に「本物」の人間を想起するのだ。その瞬間に、キャラクターが実在感を帯びる。そして視聴者は自然と、そこに心――内面があるように感じる。
 だから図像そのものを写実的にすることが、「本物」に近づくことではない。なまじ図像そのものが本物にどんどん接近していくと、むしろ本物と違うところが気になるようになってくる。ロボット工学で指摘されている「不気味の谷」の問題だ。
 
 「不気味の谷」とは次のような現象だ。
 人間を模した単純なロボットに対しては親近感を感じるが、人間に似過ぎるとこんどは違和感のほうが勝るようになってしまう。しかしさらに人間と見分けがつかないほどに似せるところまで達すれば、再び親近感は増すと考えられる。この時、親近感をグラフで表示すると、「人間に似過ぎたロボット」のところで大きく谷状に凹むことから、この現象は「不気味の谷」と呼ばれるようになった。
 
 絵というのは、簡略化された線で表現されており、細部は記号的に整理されている。そして記号的に整理された細部は、何度も描かれ、ほかの人に真似られていく過程で記号そのものになっていく。たとえば、怒りを表す漫符を思い出してみよう。あれはそもそもは「怒ってこめかみに浮かび上がった血管」を簡略化して描いたものだった。それが今は完全に記号となって、携帯電話の絵文字にまで使われている。こうして完全に記号になってしまうと、現実を想起させるよすがとしての力は弱くなる。
 集団作業であるアニメーションは、大勢で効率よく描くための表層的な記号を活用せざるを得ない側面がある。だが一方、そのキャラクターを実在のものと感じてもらうためには、現実に立ち返り簡略化された線で改めて現実を再表現する必要がある。手描きアニメーションとはこの「誰でも描ける記号」と「記号になる以前の簡略化された線」という二つの要素の融合(あるいは分裂)の上で成立しているのだ。
 
 では、3DCGで描かれたキャラクターはどうだろうか。『STAND BY ME ドラえもん』をもとに考えてみたい。
 白組制作の本作は、原作に準拠した記号的なデザインのキャラクターにフォトリアリスティックな質感を加えるというスタイルで出来上がっている。しかし完全に写実を目指しているわけではない。布目が見える洋服の質感など、人形アニメを念頭に置いているらしい節もある。完全な実写映像を念頭に置いてキャラクターを造形するのではなく、人形アニメのような現実に対して情報量の欠落の多いメディアを参照項の一つにすることで、不気味の谷を巧みに回避していると考えられる。
 ただ、そうした工夫を踏まえてなお『STAND BY ME ドラえもん』のキャラクターたちはかなりリアルな肌触りがある。ただし、それは図像の向こうに「本物」がいる感覚とは異なり、「その空間にそういうキャラクターが実際にいる」という感覚だ。
 
 これは輪郭線の有無が大きい。線で描かれたものは「絵」であり、それは既に実物ではない。逆にいえば、輪郭線がないものは、それだけで「本物」としての存在感を自動的に持つ。さらに3DCGのリアリスティックなライティングは、その「本物」としての存在感をより強化する。ある空間にある量感を持ってキャラクターが存在する。その実在感が、視聴者にキャラクターに内面があることを予想させる。
 同じ量感があるキャラクターであっても、多くの人形アニメは手描きアニメに近い見られ方をしている。なぜなら素材の質感や表情変化の少なさなどが、それが現実でないことを示し、それ故に観客はその向こう側に「本物」を見ているからだ。だから『パラノーマン ブライス・ホローの謎』のような豊かな表情変化と多彩な質感を持つ人形アニメになると、視聴者の認識はぐっと3DCGに接近する。
 
 ただここで思い出すのは、原作の『ドラえもん』はそれほど「本物」らしい作品ではないということだ。
 もともとが小学生のしかも中学年以下を想定した、短編SFコメディである。そこではキャラクターの喜怒哀楽は人間の感情というより、読者の共感を獲得しつつ物語を転がしていくための一要素に過ぎない。だから20ページに満たない1回分の連載の中で、物語はサクサクと展開していく。この歯切れのよい展開は、キャラクターの複雑な内面など感じさせない記号化された絵だからこそ生まれるものだ。逆に言えば、普段がそうだからこそ、たまにあるキャラクターの内面に迫ったエピソードが印象に残ったのだ。
 だから、原作の中のいわゆる「泣けるエピソード」を軸に構成した『STAND BY ME ドラえもん』を見ると、「泣けるエピソード」部分ではキャラクターの本物らしさ――内面を想像させる部分が効果をあげている。映画がヒットしたというのは、この部分をエンターテインメントとして満喫した人が多かったのだろう。
 
 だがその一方で、「現在の生活が苦しいため過去に干渉して他人の人生を変えてしまう」という無邪気な基本設定や、人の気持ちを機械的に作り替える「刷り込みたまご」のエピソードなどは、キャラクターの本物らしさとコンフリクトを起こしていた。登場人物が他人の心を無視した行動を平然とするため、なまじ想定される内面が空虚に感じられてしまうのだ。前作『friends もののけ島のナキ』がこうした齟齬を感じさせる部分がなかったのは、「記号で描かれたマンガ」を原作としていなかったためだろう。
 
 こうして考えて見ると、ピクサー・ライクな画面作りをする3DCG作品は、アニメよりもやや実写に近い立ち位置で観客に見られており、観客が自動的にキャラクターの内面を想像してしまうところに表現上のメリットがある、ということになる。もちろんこれは結論ではない。だが、これを一つの仮説として今後の3DCG作品を見ていくことには意味があるように思う。
 
 そしてこれは裏返すと、アニメ・マンガの実写化におけるキャラクター表現とはどうあるべきか、という話でもある。
 こちらは本題ではないので手短に記すが、外見を似せるように内面まで似せようとすると「仮装」になってしまう。人間が演じて違和感のない動機・感情を原作の枠の中から拾い出し、再構成してセッティングしないとキャラクターとしては動き出さない。
 たとえば実写『ルパン三世』では、記号的な原作のルパンというキャラクターを実写映画のルパンとして巧みに置き換えていた。だが、石川五ェ門はそこまでの手間を割いていない。二人のキャラクターの存在感の差は、そこに起因している。
 表現手段とキャラクターのあり方と、そしてドラマは密接な関係があるのだ。
 

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota

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