2015年01月09日(金)

藤津亮太のアニメ時評 四代目 アニメの門 第18回
『ジョバンニの島』『クレヨンしんちゃん ガチンコ!
逆襲のロボとーちゃん』『グラスリップ』

アニメの門

2014年こぼれ作品振り返り

 今回は朝日新聞の年間回顧でも取り上げた『ジョバンニの島』『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』『グラスリップ』の魅力を語る。いずれもインパクトある作品だったが、タイミングが悪く、当欄で語るべき要素がありながら取り上げ損なってしまっていたのだ。
 
 『ジョバンニの島』は色丹島で敗戦を迎えた人々の帰国までの苦難の道を、10歳の少年・純平の視点から描く。
 ソ連が島に上陸し純平の通う学校も半分占領され、ソ連軍の兵士の子供たちが通うようになる。
 この映画ではさまざまなものが壁を隔てて円運動を見せる。
 まず往還を始めるのは、純平と弟の寛太の宝物である鉄道模型だ。二人が遊んでいると、家の半分を占拠したソ連将校の一人娘がそっと戸を開け、鉄道模型の線路を差し出す。鉄道模型は、二つの部屋を繋いで大きく円を描くように組み立てられた線路をぐるぐると走り回る。
 次は子供たちの歌声だ。壁を隔てて音楽の授業をする二つの国の子供たち。やがて子供たちは薄い壁を隔てて、互いの国の歌を覚えてしまう。歌声の応酬は、グラウンドで行われる両国入り乱れての鬼ごっこに繋がる。鉢植えで作られていたグラウンド上の境界線などなかったように振る舞う子供たち。最後は、ターニャが純平にキスをして、驚いた子供たちをカメラが360度のパン(円運動)で捉えている。円運動は、純平がターニャの家で体験するレコードとダンスにも見られる。
 そして年老いた純平が交流事業で色丹島を訪れたラストシーンで、かつてのターニャの面影を残す少女と回りながらダンスを踊ることで、この円運動の映画は終わる。
 映画そのものは純平たち家族の苦難に寄り添いながら静かに展開していく。その中で、演出が雄弁に語っているところが非常に印象に残った一作だった。
 
 『映画クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』は、ここ数年の「しんちゃん映画」の中でも出色のおもしろさ。ただし物語の構造は少々複雑だ。
 物語は、マッサージに行った父親ヒロシがロボットになってしまったところから始まる。この“ロボとーちゃん”が次第に野原家に受け入れられていくまでが前半。
 後半はそのロボットの背後に控え、父権の復活を試みる「父ゆれ同盟」の存在が明らかとなり、彼らが日本征服を行おうとする。“ロボとーちゃん”を含む野原一家は団結して、彼らに対抗しようとすることになる。
 ポイントは、ひろしと“ロボとーちゃん”は協力して「父ゆれ同盟」に対抗するが、「野原家の父の座」をめぐって並び立つことのできない存在でもあること。つまり「父とはどういう存在であるべきか」という父親の資格を問うマクロな問題と、「我が家のお父さんはどっちだ」というミクロの問題が微妙にクロスしない形(なぜならひろしもロボとーちゃんも“資格”という点ではどちらも野原家の父として問題ないから)で共存していて、ここが案外複雑な印象を与える。しかし、この複雑な構造を絶妙なペース配分とエモーションで押し切ることで、バトルあり、涙ありのエンターテインメントとして着地させているところが素晴らしい。
 興味深いのは「父ゆれ同盟」の首魁・鉄拳寺堂勝の正体。弱さをこじらせた男が父権の復活にすがりつくというアイデアは非常に今日的なあり方でもあった。その点でも本作は一筋縄でいかない作品といえる。
 
 『グラスリップ』は、西村純二監督とP.A.WORKSの組み合わせから『true tears』を思い出した人も少なくないだろう。こちらは地方都市を舞台に、高校生6人の青春を描く。
 ポイントは主人公・深水透子と転校生・沖倉駆が持っている“未来の欠片”を感じる能力。正体のはっきりしないビジョンや音を見る能力を隠し味にして物語は進んでいくが、最終回前の第12話で思わぬ展開を見せる。
 第12話の「花火(再び)」というサブタイトルは第1話の「花火」を踏まえたものだ。ここでは同じ地元の花火大会が題材となっている。しかし第12話では、転校してくるのは沖倉駆ではなく深水透子になっているし、沖倉駆以外の友達に透子の姿が見えない様子もある。これは実は沖倉駆と深水透子がともに見ている“未来の欠片”なのだが、どうして現実と似て非なる風景が見えているのか。作品ではそこに合理的な解説を用意しない。
 つまり、この作品はヒントこそちりばめられてはいるが、作品の全体像を観客の解釈に大きく委ねているのだ。それだけに「この作品はいったいなんだ」という視線で再見すると、あらゆる描写や芝居が“意味ありげ”に見えてくる。漫然とした鑑賞では味わえない、作品と視聴者の真剣勝負の世界がそこには広がっている。
 本欄は『グラスリップ』を「恋愛を契機として、他人と出会う物語」ではないかと考えた。そして第12話の透子の立場は、「私が私ではない可能性」を体験することで、他人への共感的な理解が増す、ということを描きたかったのではないか、と考えている。そのほかにどのような解釈があるのか。人生の数だけ解釈可能な行間があるところが『グラスリップ』の魅力だ。
 
 2015年も多様な作品と出会えることを期待している。
 

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota

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