2015年04月03日(金)

藤津亮太のアニメ時評 四代目アニメの門 第21回
『純潔のマリア』『ユリ熊嵐』
『ガンダム Gのレコンギスタ』

アニメの門

世界と個人の関わり方

 三月末に放送されたいくつかの最終回を見ながら、「この世のあり方」と「個人」の関係について考えた。最終回を題材にしているため物語の結末に触れているので、読む方はそのつもりで。
 
 たとえば『純潔のマリア』。
 百年戦争後期のフランスにいる魔女マリアは、戦いを好まず、魔法を使ってイングランドとフランスの戦いに介入していた。そのせいでマリアは“天の教会”の大天使ミカエルから「世の理を乱す」と目を付けられる。人間が人間の都合で生きて、時に争うことこそが「この世のあり方」として自然で、そこに魔力という“チート”で干渉するのは許されないというのだ。
 そんなマリアは最終回で「ひとり一人が自分の幸せを見つければ、結局皆幸せになる」ことに気づいたと語り、「自分は魔法を失っても戦いを止める」とミカエルに啖呵をきる。
 マリアのこの意見がおもしろいのは、ミカエルの示す「世の理」を論破するというよりは、その「世の理」に従いながらも内側からそれを書き換えてしまうようなものだからだ。
 人間は願うことができる。変わることができる。そういう可塑性を個人が持っていれば、無数の個人が織りなす「この世」もまた可塑性を帯びることになる。
 もちろん「個人が変われば世界が変わる」という考え方=世界観はとりたてて珍しいものではない。大事なのは、各作品が物語を通じて何かを伝えようとした時に、いくつかある世界観の中からどういう「世界観」をチョイスするかだ。『純潔のマリア』の場合、マリアというキャラクターを光源として、さまざまな人間模様を照らし出すという物語だからこそ、「個人が変われば世界が変わる(かもしれない)」という人の営みを大事に考える落しどころが選ばれたのだ。
 
 『純潔のマリア』は「この世の可塑性」の可能性を示すだけだったが、「この世の可塑性」がもっと高い作品やもっと低い作品もある。
 「この世の可塑性」が高い作品は、物語を通じてある種の価値観の転倒が描かれる。たとえば『風の谷のナウシカ』や『交響詩篇エウレカセブン』はどちらも物語冒頭では常識だったことが、作品のラストまでに覆っている。
 一方、「この世の可塑性」が低い作品では、物語が始まった時と終わった時で「この世のあり方」が変わらない。今期の注目作であった『ユリ熊嵐』と『ガンダム Gのレコンギスタ』はどちらも「この世の可塑性」が低かった。
 
 『ユリ熊嵐』の「この世」は「クマは人を襲う。人はそんなクマを恐れ憎んでいる」と「透明な嵐(排除する人間を選ぶことで団結する同調圧力)」だ。
 本作は、この二つを前提に、恋人や母をクマに食べられた椿輝紅羽が、クマである百合城銀子と心を通わせることができるかどうかを巡る物語を展開する。
 結論からいえば、二人は思いを通わすことになる。常識破りな出来事だが、それでも、世界は変わらない。
 物語のラストでは学生たちは、排除の儀を行い続け、クマの世界との間にある壁は建設が続く。ただ、そのような「この世のあり方」の中にあっても、紅羽や銀子のようにそこから逸脱してしまう存在はなくならないことが示されて物語は締めくくられる。
 「この世のあり方」は変わらない。だが、そこに自らの爪で、破れ目をつくることはできる。そしてその破れ目から銀子と紅羽は「この世界」の外側に出てしまったのだ。これが『ユリ熊嵐』の描く「この世のあり方」と「個人」の関係だ。映画『テルマ&ルイーズ』のラストを思い出すような締めくくりだった。
 
 もう一つの『Gのレコンギスタ』は『ユリ熊嵐』よりもさらに「この世の可塑性」は低い。多数のキャラクターがさまざまな動機でうごめき、戦いもするのだが、そうした個人や組織の動きでは『Gのレコンギスタ』の「この世のあり方」は微動だにしないのだ。
 三勢力の入り乱れた戦いがどのように政治的決着したかは明確に描かれず、月の裏側にあるトワサンガにしろ、金星圏のヴィーナスグロゥブにせよ、本編開始前と同じようにそこに存在したまま終わりを迎える。そして主人公ベルリやキャラクターのその後にフォーカスして物語は締めくくられる。
 『ユリ熊嵐』の可塑性の低い「この世」は、冷たく硬質なものとして描かれていた。ところが『Gのレコンギスタ』の可塑性の低い「この世」は、それにもかかわらずずいぶんと優しくふんわりとしているのだ。
 そう見える理由は、出てくるキャラクターの大半が、そんな「この世のあり方」に半身を預けながらも、残りはずいぶんと自由に振る舞っているからだ。だから「正義と正義」のぶつかりあいから生まれるはずの「敵」のあり方もはっきりしない。そうした自由なキャラクターたちの中にあって「この世のあり方」に一番縛られていたのは、出自にこだわりを持っていたマスクだろう。
 『Gのレコンギスタ』の「この世のあり方」と「個人」の関係は、すがすがしいほどに遠い。そこには「年々歳々花相似たり。歳々年々人同じからず」とでもいうような達観が流れている。
 この世のあり方は変わらず、人間たちだけがそこであれこれと動き回っている。ラストのあらゆる勢力の根拠が一つの画面に収められたカットはまさにそういうニュアンスを持っていた。変わりたくても変われない人類(なにしろ金星圏に人工海まで作れる技術を持ちながら、地球に帰還したがるのだ)は、時にいざこざを起こしながら、歴史を紡いでいくのだろう。
 
 「この世のあり方」と「個人」の関係をどのように描くかに注目すると、その作品の骨格がよく見える。
 

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota

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