2015年06月05日(金)

藤津亮太のアニメ時評
四代目アニメの門 第23回
『百日紅~Miss HOKUSAI~』

アニメの門

見えないものが見えること

 映画『百日紅~Miss HOKUSAI~』は杉浦日向子のマンガの中からいくつかのエピソードを選んで構成されている。原作は葛飾北斎の娘・お栄を中心とした人々の様子を描く連作短編で、全体として大きな物語は存在しない。だから「どんなエピソードを選んだか」はこの映画の顔つきを決めた大きな要素といえる。
 
 映画は大きく 7本のエピソードを選び出して構成されている。まず「木瓜」をアレンジしてキャラクター紹介として冒頭に置き、以下、お栄が龍を描く「龍」、花魁・小夜衣にまつわる怪異「離魂病」、火事好きのお栄を見せる「火焔」、地獄絵が発端となる「鬼」、お栄の恋愛を描く「色情」、そしてお栄の妹・お猶が登場する「野分」という具合に並んでいる。
 映画はこの「野分」に登場するお猶とお栄、そして北斎の関係を縦軸とした。そのため、オリジナルエピソードとして前半と中盤にそれぞれお栄とお猶が二人で外出する展開を盛り込んで、「野分」がクライマックスとなるように流れをつくっている。
 選び出された7つのエピソードから構成された映画は、当然ながら映画ならではの主題が浮かび上がってくる。それは「見えないものを見ること」だ。
 
 アヴァンタイトルで描かれる「木瓜」の中で、お栄は母・ことと弁当を食べながら言葉を交わす。原作はここで、義兄や弟の近況が話題に上っているのだが、映画ではお猶についての会話になっている。
 お猶は生まれながらに目が見えず、普段は尼寺に預けられている。北斎は後妻の住む自宅を出てお栄と転居を繰り返しながら暮らしており、お猶とは距離感がある。それはお栄にいわせると「(北斎が)弱虫だからだ」ということになるのだが。
 ことは、お栄がお猶に持っていってあげた金魚の話をする。「毎日、見てるってさ。金魚。見えないのに見てるって」。
 映画はお栄の日々の生活を追いつつも、この言葉をきっかけに「見えないものを見ること」をめぐって展開を始める。
 
 実際、本編でクローズアップされるお栄の絵は「龍」と「地獄絵」というこの世にあらざるものを描いた絵だ。
 「龍」のエピソードでは、龍をとらえようと集中するお栄を描きつつ、家から追い出された北斎たちが酒を飲んでいる様子が描かれる。そこで、善次郎(北斎の家の居候で浮世絵師)が「龍なんているもんか」というと、友人の歌川国直は「ガキの時分、信州で見たよ」といい、北斎も「おれも見た。雲の中に爪や鱗がはっきり見えた」と断言する。
 「地獄絵」では、お栄の描いた地獄絵があまりに見事すぎて、その絵を置いている家に不幸が降りかかるというエピソード。そこで北斎が後始末のために一計を案じる。ここで対比されるのは、お栄は「見たものに流されれてしまっている」が、北斎は「自分に見えて、描いているものがどういうものか自覚している」という違いだ。
 そして「見えないものが見えること」が一番具体的に描かれるのが、夜中になると首が伸びるという花魁・小夜衣を描いた「離魂病」のエピソードだ。
 お栄、北斎、善次郎の3人組は、首が伸びるという噂を検分するため吉原に泊まり込む。夜半に、小夜衣の枕に仕掛けられた鈴が鳴るので、寝所へそっと入り込むと、小夜衣の顔から顔の形をした生き霊が浮かび上がり、蚊帳の中をうろうろとしている。
 おもしろいのはお栄と北斎はこの生き霊がはっきりと見えているのだが、善次郎にはまったく見えないこと。
 
 では、生き霊が見えない善次郎が、描き手としてまったくダメかというとそんなに単純な話ではないのが本作のおもしろいところ。
 善次郎は、絵の正確性などは低いが、それがかえって不思議な生々しさをもっていて、枕絵はうまいと評されるキャラクターなのだ。一方で、お栄は絵は正確だけれど、頭だけで描いた枕絵には色気が足りないといわれている。つまりお栄は色気は見えておらず、善次郎は色気という目に見えないものは、(無自覚とはいえ)とらえているのだ。
 「見えないものを見ること」をめぐる本作だが、善次郎とお栄の関係を見てもわかる通り、本作は「見えないこと」がなんらかの欠落であるとは短絡しない。あるものが見えなくとも、人間は別の何かによって豊かな世界を生きている、というのがこの映画の姿勢なのだ。
 
 ここで思い出されるのはお猶のエピソードの描かれ方だ。
 まずお栄はお猶と連れ立って、両国橋へと赴く。そこでお猶は、足音、物売りの声、荷車の音など音の洪水とさまざまな匂いを楽しむ。お栄とそこにやってきた初五郎との会話の間、お猶が飛んできたトンボの羽音に気持ちを動かされる描写は、お猶の世界がどのようなものかを印象づけている。
 冬になるとお栄はお猶と、雪の積もった大川の堤を歩き、三囲稲荷を訪れる。ここでお猶は偶然知り合った少年と、雪遊びを楽しむ。そこでは、雪の冷たさや枝から落ちる重さ(触感)、雪の落ちる音や少年の声(聴覚)が新鮮な喜びでお猶の内面を満たしていることがよくわかる。
 「見えないこと」が何かの欠落ではないことがお猶の描写からもよく伝わってくる。
 やがて、お猶は病に伏せるようになり、そこにようやく北斎が訪れる。お猶は手を伸ばし、北斎の顔を触る。
 その時、コマの中の背景は真っ暗になり、その中に北斎と手を伸ばすお猶の姿が浮かび上がる。暗黒の世界に住むお猶の中に、父・北斎の顔が具体的なものとして浮かび上がったのだ。映画も原作のこのインパクトある演出をそのまま映像作品として再表現している。これまで外側から描かれていたお猶の内面が、はじめてビジュアルで表現されたシーンだ。
 ここには単なる父の存在を確認した喜びに留まらない、「見えないもの」が「見えるもの」に転換してしまうことの重さが表現されている。
 さらにこの後、お猶はお栄に寄り添って寝ながら「蚊帳の上になにかいるよ」という。お栄が見ると、そこにはカマキリがいるのだが、ここもまたお猶が「見えないものを見ている」シーンといえる。ほんの小さな命の気配が見えてしまうことが、お猶の命がもう長くないことの予感につながっている。
 
 絵描きの物語であり、まだ怪異が身近な江戸時代を舞台にしている以上、本作が「見えないものが見えること」を繰り返し描くのは当然のことだ。だが、目の見えないお猶の存在によって、「見えないものが見えること」の意味が、絵描きや江戸時代に留まらない、もっと一般性を持って観客に示されているのだ。
 

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota

 
「四代目アニメの門」は、次回で最終回となります。
     来月もどうぞお見のがしなく!!

 

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